る通り、定《き》まった事は定まったようにせんとならんじゃが、多い中じゃに無理もないようなものの、亜麻などを親方、ぎょうさん[#「ぎょうさん」に傍点]つけたものもあって、まこと済まん次第じゃが、無理が通れば道理もひっこみよるで、なりませんじゃもし」
仁右衛門は場規もかまわず畑の半分を亜麻にしていた。で、その言葉は彼れに対するあてこすり[#「あてこすり」に傍点]のように聞こえた。
「今日なども顔を出しよらん横道者《よこしまもの》もありますじゃで……」
仁右衛門は怒りのために耳がかァん[#「かァん」に傍点]となった。笠井はまだ何か滑らかにしゃべっていた。
場主がまだ何か訓示めいた事をいうらしかったが、やがてざわざわと人の立つ気配がした。仁右衛門は息気《いき》を殺して出て来る人々を窺《うか》がった。場主が帳場と一緒に、後から笠井に傘《かさ》をさしかけさせて出て行った。労働で若年の肉を鍛《きた》えたらしい頑丈《がんじょう》な場主の姿は、何所《どこ》か人を憚《はば》からした。仁右衛門は笠井を睨《にら》みながら見送った。やや暫《しば》らくすると場内から急にくつろいだ談笑の声が起った。そして二、三人ずつ何か談《かた》り合《あ》いながら小作者らは小屋をさして帰って行った。やや遅れて伴《つ》れもなく出て来たのは佐藤だった。小さな後姿は若々しくって青年《あんこ》のようだった。仁右衛門は木の葉のように震えながらずかずかと近づくと、突然後ろからその右の耳のあたりを殴りつけた。不意を喰《くら》って倒れんばかりによろけた佐藤は、跡も見ずに耳を押えながら、猛獣の遠吠《とおぼえ》を聞いた兎《うさぎ》のように、前に行く二、三人の方に一目散にかけ出してその人々を楯《たて》に取った。
「汝《わり》ゃ乞食《ほいと》か盗賊《ぬすっと》か畜生か。よくも汝《われ》が餓鬼どもさ教唆《しか》けて他人《ひと》の畑こと踏み荒したな。殴《う》ちのめしてくれずに。来《こ》」
仁右衛門は火の玉のようになって飛びかかった。当の二人と二、三人の留男《とめおとこ》とは毬《まり》になって赤土の泥の中をころげ廻った。折重なった人々がようやく二人を引分けた時は、佐藤は何所《どこ》かしたたか傷を負って死んだように青くなっていた。仲裁したものはかかり合いからやむなく、仁右衛門に付添って話をつけるために佐藤の小屋まで廻り道をした。小屋の中では佐藤の長女が隅《すみ》の方に丸まって痛い痛いといいながらまだ泣きつづけていた。炉《ろ》を間に置いて佐藤の妻と広岡の妻とはさし向いに罵《ののし》り合《あ》っていた。佐藤の妻は安座《あぐら》をかいて長い火箸《ひばし》を右手に握っていた。広岡の妻も背に赤ん坊を背負って、早口にいい募っていた。顔を血だらけにして泥まみれになった佐藤の跡から仁右衛門が這入って来るのを見ると、佐藤の妻は訳を聞く事もせずにがたがた震える歯を噛《か》み合せて猿のように唇《くちびる》の間からむき出しながら仁右衛門の前に立ちはだかって、飛び出しそうな怒りの眼で睨《にら》みつけた。物がいえなかった。いきなり火箸を振上げた。仁右衛門は他愛もなくそれを奪い取った。噛みつこうとするのを押しのけた。そして仲裁者が一杯飲もうと勧めるのも聴かずに妻を促して自分の小屋に帰って行った。佐藤の妻は素跣《すはだし》のまま仁右衛門の背に罵詈《ばり》を浴せながら怒精《フューリー》のようについて来た。そして小屋の前に立ちはだかって、囀《さえず》るように半ば夢中で仁右衛門夫婦を罵りつづけた。
仁右衛門は押黙ったまま囲炉裡《いろり》の横座《よこざ》に坐って佐藤の妻の狂態を見つめていた。それは仁右衛門には意外の結果だった。彼れの気分は妙にかたづかないものだった。彼れは佐藤の妻の自分から突然離れたのを怒ったりおかしく思ったり惜《おし》んだりしていた。仁右衛門が取合わないので彼女はさすがに小屋の中には這入らなかった。そして皺枯《しわが》れた声でおめき叫びながら雨の中を帰って行ってしまった。仁右衛門の口の辺にはいかにも人間らしい皮肉な歪《ゆが》みが現われた。彼れは結局自分の智慧《ちえ》の足りなさを感じた。そしてままよと思っていた。
凡《すべ》ての興味が全く去ったのを彼れは覚えた。彼れは少し疲れていた。始めて本統《ほんとう》の事情を知った妻から嫉妬《しっと》がましい執拗《しつこ》い言葉でも聞いたら少しの道楽気《どうらくげ》もなく、どれほどな残虐な事でもやり兼ねないのを知ると、彼れは少し自分の心を恐れねばならなかった。彼れは妻に物をいう機会を与えないために次から次へと命令を連発した。そして晩《おそ》い昼飯をしたたか喰った。がらっと箸《はし》を措《お》くと泥だらけなびしょぬれな着物のままでまたぶらりと小屋を出た。この村に這入りこんだ博
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