を見ると一寸《ちょっと》ほほえましい気分になって、
 「おっかあ、火種べあったらちょっぴり分けてくれずに」
といった。与十の妻は犬に出遇った猫のような敵意と落着《おちつ》きを以《もっ》て彼れを見た。そして見つめたままで黙っていた。
 仁右衛門は脂《やに》のつまった大きな眼を手の甲で子供らしくこすりながら、
 「俺らあすこの小屋さ来たもんだのし。乞食《ほいと》ではねえだよ」
といってにこにこした。罪のない顔になった。与十の妻は黙って小屋に引きかえしたが、真暗な小屋の中に臥乱《ねみだ》れた子供を乗りこえ乗りこえ囲炉裡《いろり》の所に行って粗朶《そだ》を一本提げて出て来た。仁右衛門は受取ると、口をふくらましてそれを吹いた。そして何か一言二言話しあって小屋の方に帰って行った。
 この日も昨夜《ゆうべ》の風は吹き落ちていなかった。空は隅《すみ》から隅《すみ》まで底気味悪く晴れ渡っていた。そのために風は地面にばかり吹いているように見えた。佐藤の畑はとにかく秋耕《あきおこし》をすましていたのに、それに隣《とな》った仁右衛門の畑は見渡す限りかまどがえし[#「かまどがえし」に傍点]とみずひき[#「みずひき」に傍点]とあかざ[#「あかざ」に傍点]ととびつか[#「とびつか」に傍点]とで茫々《ぼうぼう》としていた。ひき残された大豆の殻《から》が風に吹かれて瓢軽《ひょうきん》な音を立てていた。あちこちにひょろひょろと立った白樺《しらかば》はおおかた葉をふるい落してなよなよとした白い幹が風にたわみながら光っていた。小屋の前の亜麻をこいだ所だけは、こぼれ種から生えた細い茎が青い色を見せていた。跡は小屋も畑も霜のために白茶けた鈍い狐色《きつねいろ》だった。仁右衛門の淋しい小屋からはそれでもやがて白い炊煙がかすかに漏れはじめた。屋根からともなく囲いからともなく湯気のように漏れた。
 朝食をすますと夫婦は十年も前から住み馴《な》れているように、平気な顔で畑に出かけて行った。二人は仕事の手配もきめずに働いた。しかし、冬を眼の前にひかえて何を先きにすればいいかを二人ながら本能のように知っていた。妻は、模様も分らなくなった風呂敷《ふろしき》を三角に折って露西亜《ロシア》人《じん》のように頬《ほお》かむりをして、赤坊を背中に背負いこんで、せっせと小枝や根っこを拾った。仁右衛門は一本の鍬《くわ》で四町にあまる畑の一隅から掘り起しはじめた。外《ほか》の小作人は野良《のら》仕事に片をつけて、今は雪囲《ゆきがこい》をしたり薪を切ったりして小屋のまわりで働いていたから、畑の中に立っているのは仁右衛門夫婦だけだった。少し高い所からは何処《どこ》までも見渡される広い平坦な耕作地の上で二人は巣に帰り損《そこ》ねた二匹の蟻《あり》のようにきりきりと働いた。果敢《はか》ない労力に句点をうって、鍬の先きが日の加減でぎらっぎらっと光った。津波のような音をたてて風のこもる霜枯れの防風林には烏《からす》もいなかった。荒れ果てた畑に見切りをつけて鮭《さけ》の漁場にでも移って行ってしまったのだろう。
 昼少しまわった頃仁右衛門の畑に二人の男がやって来た。一人は昨夜事務所にいた帳場だった。今一人は仁右衛門の縁者という川森|爺《じい》さんだった。眼をしょぼしょぼさせた一徹らしい川森は仁右衛門の姿を見ると、怒ったらしい顔付をしてずかずかとその傍によって行った。
 「汝《わり》ゃ辞儀一つ知らねえ奴の、何条《なんじょう》いうて俺らがには来くさらぬ。帳場さんのう知らしてくさずば、いつまでも知んようもねえだった。先ずもって小屋さ行ぐべし」
 三人は小屋に這入《はい》った。入口の右手に寝藁《ねわら》を敷いた馬の居所と、皮板を二、三枚ならべた穀物置場があった。左の方には入口の掘立柱《ほったてばしら》から奥の掘立柱にかけて一本の丸太を土の上にわたして土間に麦藁を敷きならしたその上に、所々|蓆《むしろ》が拡《ひろ》げてあった。その真中に切られた囲炉裡にはそれでも真黒に煤《すす》けた鉄瓶《てつびん》がかかっていて、南瓜《かぼちゃ》のこびりついた欠椀《かけわん》が二つ三つころがっていた。川森は恥じ入る如《ごと》く、
 「やばっちい所で」
といいながら帳場を炉の横座《よこざ》に招じた。
 そこに妻もおずおずと這入って来て、恐る恐る頭を下げた。それを見ると仁右衛門は土間に向けてかっと唾を吐いた。馬はびくん[#「びくん」に傍点]として耳をたてたが、やがて首をのばしてその香をかいだ。
 帳場は妻のさし出す白湯《さゆ》の茶碗を受けはしたがそのまま飲まずに蓆の上に置いた。そしてむずかしい言葉で昨夜の契約書の内容をいい聞かし初めた。小作料は三年ごとに書換えの一反歩二円二十銭である事、滞納には年二割五分の利子を付する事、村税は小作に割宛てる事
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