要《い》るなら川森の保証で少し位は融通すると付加えるのを忘れなかった。しかし仁右衛門は小屋の所在が知れると跡は聞いていなかった。餓えと寒さがひしひしと答え出してがたがた身をふるわしながら、挨拶一つせずにさっさと別れて歩き出した。
玉蜀黍殻《とうきびがら》といたどり[#「いたどり」に傍点]の茎で囲いをした二間半四方ほどの小屋が、前のめりにかしいで、海月《くらげ》のような低い勾配《こうばい》の小山の半腹に立っていた。物の饐《す》えた香と積肥《つみごえ》の香が擅《ほしいまま》にただよっていた。小屋の中にはどんな野獣が潜んでいるかも知れないような気味悪さがあった。赤坊の泣き続ける暗闇の中で仁右衛門が馬の背からどすんと重いものを地面に卸《おろ》す音がした。痩馬は荷が軽るくなると鬱積《うっせき》した怒りを一時にぶちまけるように嘶《いなな》いた。遙かの遠くでそれに応《こた》えた馬があった。跡は風だけが吹きすさんだ。
夫婦はかじかんだ手で荷物を提《さ》げながら小屋に這入った。永く火の気は絶えていても、吹きさらしから這入るとさすがに気持ちよく暖《あたたか》かった。二人は真暗な中を手さぐりであり合せの古蓆《ふるむしろ》や藁《わら》をよせ集めてどっかと腰を据《す》えた。妻は大きな溜息をして背の荷と一緒に赤坊を卸して胸に抱き取った。乳房をあてがって見たが乳は枯れていた。赤坊は堅くなりかかった歯齦《はぐき》でいやというほどそれを噛《か》んだ。そして泣き募った。
「腐孩子《くされにが》! 乳首《たたら》食いちぎるに」
妻は慳貪《けんどん》にこういって、懐《ふところ》から塩煎餅《しおせんべい》を三枚出して、ぽりぽりと噛みくだいては赤坊の口にあてがった。
「俺《お》らがにも越《く》せ」
いきなり仁右衛門が猿臂《えんぴ》を延ばして残りを奪い取ろうとした。二人は黙ったままで本気に争った。食べるものといっては三枚の煎餅しかないのだから。
「白痴《たわけ》」
吐き出すように良人がこういった時勝負はきまっていた。妻は争い負けて大部分を掠奪《りゃくだつ》されてしまった。二人はまた押黙って闇の中で足《た》しない食物を貪《むさぼ》り喰った。しかしそれは結局食欲をそそる媒介《なかだち》になるばかりだった。二人は喰い終ってから幾度も固唾《かたず》を飲んだが火種のない所では南瓜《かぼちゃ》を煮る事も出来なかった。赤坊は泣きづかれに疲れてほっぽり出されたままに何時《いつ》の間にか寝入っていた。
居鎮《いしず》まって見ると隙間《すきま》もる風は刃《やいば》のように鋭く切り込んで来ていた。二人は申合せたように両方から近づいて、赤坊を間に入れて、抱寝《だきね》をしながら藁の中でがつがつと震えていた。しかしやがて疲労は凡《すべ》てを征服した。死のような眠りが三人を襲った。
遠慮会釈もなく迅風《はやて》は山と野とをこめて吹きすさんだ。漆《うるし》のような闇が大河の如《ごと》く東へ東へと流れた。マッカリヌプリの絶巓《ぜってん》の雪だけが燐光を放ってかすかに光っていた。荒らくれた大きな自然だけがそこに甦《よみがえ》った。
こうして仁右衛門夫婦は、何処《どこ》からともなくK村に現われ出て、松川農場の小作人になった。
(二)
仁右衛門の小屋から一町ほど離れて、K村から倶知安《くっちゃん》に通う道路添《みちぞ》いに、佐藤与十という小作人の小屋があった。与十という男は小柄で顔色も青く、何年たっても齢《とし》をとらないで、働きも甲斐《かい》なそうに見えたが、子供の多い事だけは農場一だった。あすこの嚊《かかあ》は子種をよそから貰《もら》ってでもいるんだろうと農場の若い者などが寄ると戯談《じょうだん》を言い合った。女房と言うのは体のがっしりした酒喰《さけぐら》いの女だった。大人数なために稼《かせ》いでも稼《かせ》いでも貧乏しているので、だらしのない汚い風はしていたが、その顔付きは割合に整っていて、不思議に男に逼《せま》る淫蕩《いんとう》な色を湛《たた》えていた。
仁右衛門がこの農場に這入《はい》った翌朝早く、与十の妻は袷《あわせ》一枚にぼろぼろの袖無《そでな》しを着て、井戸――といっても味噌樽《みそだる》を埋めたのに赤※[#金へんに繍の正字の右側、19−5]《あかさび》の浮いた上層水《うわみず》が四分目ほど溜ってる――の所でアネチョコといい慣わされた舶来の雑草の根に出来る薯《いも》を洗っていると、そこに一人の男がのそりとやって来た。六尺近い背丈《せい》を少し前こごみにして、営養の悪い土気色《つちけいろ》の顔が真直に肩の上に乗っていた。当惑した野獣のようで、同時に何所《どこ》か奸譎《わるがしこ》い大きな眼が太い眉の下でぎろぎろと光っていた。それが仁右衛門だった。彼れは与十の妻
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