はとうとう身を震わして泣き出した。意外にも仁右衛門は叱りつけなかった。そして自分は大きな荷を軽々と背負い上げてその上に馬の皮を乗せた。二人は言い合せたようにもう一度小屋を見廻した。
小屋の戸を開けると顔向けも出来ないほど雪が吹き込んだ。荷を背負って重くなった二人の体はまだ堅くならない白い泥の中に腰のあたりまで埋まった。
仁右衛門は一旦|戸外《そと》に出てから待てといって引返して来た。荷物を背負ったままで、彼れは藁繩の片っ方の端を囲炉裡にくべ、もう一つの端を壁際にもって行ってその上に細《こまか》く刻んだ馬糧の藁をふりかけた。
天も地も一つになった。颯《さっ》と風が吹きおろしたと思うと、積雪は自分の方から舞い上るように舞上った。それが横なぐりに靡《なび》いて矢よりも早く空を飛んだ。佐藤の小屋やそのまわりの木立は見えたり隠れたりした。風に向った二人の半身は忽《たちま》ち白く染まって、細かい針で絶間なく刺すような刺戟《しげき》は二人の顔を真赤にして感覚を失わしめた。二人は睫毛《まつげ》に氷りつく雪を打振い打振い雪の中をこいだ。
国道に出ると雪道がついていた。踏み堅められない深みに落ちないように仁右衛門は先きに立って瀬踏みをしながら歩いた。大きな荷を背負った二人の姿はまろびがちに少しずつ動いて行った。共同墓地の下を通る時、妻は手を合せてそっちを拝みながら歩いた――わざとらしいほど高い声を挙げて泣きながら。二人がこの村に這入《はい》った時は一頭の馬も持っていた。一人の赤坊もいた。二人はそれらのものすら自然から奪い去られてしまったのだ。
その辺から人家は絶えた。吹きつける雪のためにへし折られる枯枝がややともすると投槍のように襲って来た。吹きまく風にもまれて木という木は魔女の髪のように乱れ狂った。
二人の男女は重荷の下に苦しみながら少しずつ倶知安《くっちゃん》の方に動いて行った。
椴松帯《とどまつたい》が向うに見えた。凡《すべ》ての樹《き》が裸かになった中に、この樹だけは幽鬱《ゆううつ》な暗緑の葉色をあらためなかった。真直な幹が見渡す限り天を衝《つ》いて、怒濤《どとう》のような風の音を籠《こ》めていた。二人の男女は蟻《あり》のように小さくその林に近づいて、やがてその中に呑み込まれてしまった。
(一九一七、六、一三、鶏鳴を聞きつつ擱筆《かくひつ》)
底本:「カイン
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