」に傍点]に勢よく立ち上って、斧《おの》を取上げた。そして馬の前に立った。馬はなつかしげに鼻先きをつき出した。仁右衛門は無表情な顔をして口をもごもごさせながら馬の眼と眼との間をおとなしく撫《な》でていたが、いきなり体を浮かすように後ろに反らして斧を振り上げたと思うと、力まかせにその眉間《みけん》に打ちこんだ。うとましい音が彼れの腹に応《こた》えて、馬は声も立てずに前膝をついて横倒しにどうと倒れた。痙攣的《けいれんてき》に後脚で蹴《け》るようなまね[#「まね」に傍点]をして、潤みを持った眼は可憐《かれん》にも何かを見詰めていた。
「やれ怖い事するでねえ、傷《いた》ましいまあ」
すすぎ物をしていた妻は、振返ってこの様を見ると、恐ろしい眼付きをしておびえるように立上りながらこういった。
「黙れってば。物いうと汝《わ》れもたたき殺されっぞ」
仁右衛門は殺人者が生き残った者を脅かすような低い皺枯《しわが》れた声でたしなめた。
嵐が急にやんだように二人の心にはかーん[#「かーん」に傍点]とした沈黙が襲って来た。仁右衛門はだらんと下げた右手に斧をぶらさげたまま、妻は雑巾《ぞうきん》のように汚い布巾《ふきん》を胸の所に押しあてたまま、憚《はばか》るように顔を見合せて突立っていた。
「ここへ来《こ》う」
やがて仁右衛門は呻《うめ》くように斧を一寸《ちょっと》動かして妻を呼んだ。
彼れは妻に手伝わせて馬の皮を剥《は》ぎ始めた。生臭い匂が小屋一杯になった。厚い舌をだらりと横に出した顔だけの皮を残して、馬はやがて裸身《はだかみ》にされて藁《わら》の上に堅くなって横《よこた》わった。白い腱《すじ》と赤い肉とが無気味な縞《しま》となってそこに曝《さ》らされた。仁右衛門は皮を棒のように巻いて藁繩でしばり上げた。
それから仁右衛門のいうままに妻は小屋の中を片付けはじめた。背負えるだけは雑穀も荷造りして大小二つの荷が出来た。妻は良人《おっと》の心持ちが分るとまた長い苦しい漂浪の生活を思いやっておろおろと泣かんばかりになったが、夫の荒立った気分を怖れて涙を飲みこみ飲みこみした。仁右衛門は小屋の真中に突立って隅《すみ》から隅まで目測でもするように見廻した。二人は黙ったままでつまご[#「つまご」に傍点]をはいた。妻が風呂敷を被《かぶ》って荷を背負うと仁右衛門は後ろから助け起してやった。妻
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