十分に考えようとした。しかし列車の中の沢山の人の顔はもう彼れの心を不安にした。彼れは敵意をふくんだ眼で一人一人|睨《ね》めつけた。
 函館の停車場に着くと彼はもうその建物の宏大もないのに胆《きも》をつぶしてしまった。不恰好《ぶかっこう》な二階建ての板家に過ぎないのだけれども、その一本の柱にも彼れは驚くべき費用を想像した。彼れはまた雪のかきのけてある広い往来を見て驚いた。しかし彼れの誇りはそんな事に敗けてはいまいとした。動《やや》ともするとおびえて胸の中ですくみそうになる心を励まし励まし彼れは巨人のように威丈高《いたけだか》にのそりのそりと道を歩いた。人々は振返って自然から今切り取ったばかりのようなこの男を見送った。
 やがて彼れは松川の屋敷に這入って行った。農場の事務所から想像していたのとは話にならないほどちがった宏大な邸宅だった。敷台を上る時に、彼れはつまご[#「つまご」に傍点]を脱いでから、我れにもなく手拭《てぬぐい》を腰から抜いて足の裏を綺麗《きれい》に押拭った。澄んだ水の表面の外《ほか》に、自然には決してない滑らかに光った板の間の上を、彼れは気味の悪い冷たさを感じながら、奥に案内されて行った。美しく着飾った女中が主人の部屋の襖《ふすま》をあけると、息気《いき》のつまるような強烈な不快な匂が彼れの鼻を強く襲った。そして部屋の中は夏のように暑かった。
 板よりも固い畳の上には所々に獣の皮が敷きつめられていて、障子《しょうじ》に近い大きな白熊の毛皮の上の盛上るような座蒲団《ざぶとん》の上に、はったん[#「はったん」に傍点]の褞袍《どてら》を着こんだ場主が、大火鉢《おおひばち》に手をかざして安座《あぐら》をかいていた。仁右衛門の姿を見るとぎろっ[#「ぎろっ」に傍点]と睨《にら》みつけた眼をそのまま床の方に振り向けた。仁右衛門は場主の一眼《ひとめ》でどやし付けられて這入る事も得せずに逡《しりご》みしていると、場主の眼がまた床の間からこっちに帰って来そうになった。仁右衛門は二度睨みつけられるのを恐れるあまりに、無器用な足どりで畳の上ににちゃっにちゃっ[#「にちゃっにちゃっ」に傍点]と音をさせながら場主の鼻先きまでのそのそ歩いて行って、出来るだけ小さく窮屈そうに坐りこんだ。
 「何しに来た」
 底力のある声にもう一度どやし付けられて、仁右衛門は思わず顔を挙げた。場主は真黒
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