て馬場《ばば》を八分目ほど廻った頃を計《はか》って手綱をゆるめると馬は思い存分|頸《くび》を延ばしてずんずんおくれた馬から抜き出した。彼れが鞭《むち》とあおり[#「あおり」に傍点]で馬を責めながら最初から目星をつけていた先頭の馬に追いせまった時には決勝点が近かった。彼れはいらだってびしびしと鞭をくれた。始めは自分の馬の鼻が相手の馬の尻とすれすれになっていたが、やがて一歩一歩二頭の距離は縮まった。狂気のような喚呼《かんこ》が夢中になった彼れの耳にも明かに響《ひび》いて来た。もう一息と彼れは思った。――その時突然|桟敷《さじき》の下で遊んでいた松川場主の子供がよたよたと埒《らち》の中へ這入《はい》った。それを見た笠井の娘は我れを忘れて駈け込んだ。「危ねえ」――観衆は一度に固唾《かたず》を飲んだ。その時先頭にいた馬は娘の華手《はで》な着物に驚いたのか、さっときれて仁右衛門の馬の前に出た。と思う暇もなく仁右衛門は空中に飛び上って、やがて敲《たた》きつけられるように地面に転がっていた。彼れは気丈《きじょう》にも転がりながらすっく[#「すっく」に傍点]と起き上った。直ぐ彼れの馬の所に飛んで行った。馬はまだ起きていなかった。後趾《あとあし》で反動を取って起きそうにしては、前脚を折って倒れてしまった。訓練のない見物人は潮《うしお》のように仁右衛門と馬とのまわりに押寄せた。
仁右衛門の馬は前脚を二足とも折ってしまっていた。仁右衛門は惘然《ぼんやり》したまま、不思議相《ふしぎそう》な顔をして押寄せた人波を見守って立ってる外《ほか》はなかった。
獣医の心得もある蹄鉄屋《ていてつや》の顔を群集の中に見出してようやく正気に返った仁右衛門は、馬の始末を頼んですごすごと競馬場を出た。彼れは自分で何が何だかちっとも分らなかった。彼れは夢遊病者のように人の間を押分けて歩いて行った。事務所の角まで来ると何という事なしにいきなり路《みち》の小石を二つ三つ掴《つか》んで入口の硝子《ガラス》戸《ど》にたたきつけた。三枚ほどの硝子は微塵《みじん》にくだけて飛び散った。彼れはその音を聞いた。それはしかし耳を押えて聞くように遠くの方で聞こえた。彼れは悠々《ゆうゆう》としてまたそこを歩み去った。
彼れが気がついた時には、何方《どっち》をどう歩いたのか、昆布岳の下を流れるシリベシ河の河岸の丸石に腰かけてぼんやり
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