く重い冷たいものだった。何よりも先ず彼れは腹の力の抜けて行くような心持ちをいまいましく思ったがどうしようもなかった。
 勿体《もったい》ぶって笠井が護符を押いただき、それで赤坊の腹部を呪文《じゅもん》を称《とな》えながら撫《な》で廻わすのが唯一の力に思われた。傍にいる人たちも奇蹟の現われるのを待つように笠井のする事を見守っていた。赤坊は力のない哀れな声で泣きつづけた。仁右衛門は腸《はらわた》をむしられるようだった。それでも泣いている間はまだよかった。赤坊が泣きやんで大きな眼を引つらしたまま瞬《まばた》きもしなくなると、仁右衛門はおぞましくも拝むような眼で笠井を見守った。小屋の中は人いきれで蒸すように暑かった。笠井の禿上《はげあが》った額からは汗の玉がたらたらと流れ出た。それが仁右衛門には尊くさえ見えた。小半時《こはんとき》赤坊の腹を撫で廻わすと、笠井はまた古鞄の中から紙包を出して押いただいた。そして口に手拭《てぬぐい》を喰わえてそれを開くと、一寸四方ほどな何か字の書いてある紙片を摘《つま》み出して指の先きで丸めた。水を持って来さしてそれをその中へ浸した。仁右衛門はそれを赤坊に飲ませろとさし出されたが、飲ませるだけの勇気もなかった。妻は甲斐甲斐《かいがい》しく良人《おっと》に代った。渇き切っていた赤坊は喜んでそれを飲んだ。仁右衛門は有難いと思っていた。
 「わしも子は亡《な》くした覚えがあるで、お主の心持ちはようわかる。この子を助けようと思ったら何せ一心に天理王様に頼まっしゃれ。な。合点か。人間|業《わざ》では及ばぬ事じゃでな」
 笠井はそういってしたり顔をした。仁右衛門の妻は泣きながら手を合せた。
 赤坊は続けさまに血を下した。そして小屋の中が真暗になった日のくれぐれに、何物にか助けを求める成人《おとな》のような表情を眼に現わして、あてどもなくそこらを見廻していたが、次第次第に息が絶えてしまった。
 赤坊が死んでから村医は巡査に伴《つ》れられて漸《ようや》くやって来た。香奠《こうでん》代りの紙包を持って帳場も来た。提灯《ちょうちん》という見慣れないものが小屋の中を出たり這入《はい》ったりした。仁右衛門夫婦の嗅《か》ぎつけない石炭酸の香は二人を小屋から追出してしまった。二人は川森に付添われて西に廻った月の光の下にしょんぼり立った。
 世話に来た人たちは一人去り二人去り
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