屋の中では佐藤の長女が隅《すみ》の方に丸まって痛い痛いといいながらまだ泣きつづけていた。炉《ろ》を間に置いて佐藤の妻と広岡の妻とはさし向いに罵《ののし》り合《あ》っていた。佐藤の妻は安座《あぐら》をかいて長い火箸《ひばし》を右手に握っていた。広岡の妻も背に赤ん坊を背負って、早口にいい募っていた。顔を血だらけにして泥まみれになった佐藤の跡から仁右衛門が這入って来るのを見ると、佐藤の妻は訳を聞く事もせずにがたがた震える歯を噛《か》み合せて猿のように唇《くちびる》の間からむき出しながら仁右衛門の前に立ちはだかって、飛び出しそうな怒りの眼で睨《にら》みつけた。物がいえなかった。いきなり火箸を振上げた。仁右衛門は他愛もなくそれを奪い取った。噛みつこうとするのを押しのけた。そして仲裁者が一杯飲もうと勧めるのも聴かずに妻を促して自分の小屋に帰って行った。佐藤の妻は素跣《すはだし》のまま仁右衛門の背に罵詈《ばり》を浴せながら怒精《フューリー》のようについて来た。そして小屋の前に立ちはだかって、囀《さえず》るように半ば夢中で仁右衛門夫婦を罵りつづけた。
仁右衛門は押黙ったまま囲炉裡《いろり》の横座《よこざ》に坐って佐藤の妻の狂態を見つめていた。それは仁右衛門には意外の結果だった。彼れの気分は妙にかたづかないものだった。彼れは佐藤の妻の自分から突然離れたのを怒ったりおかしく思ったり惜《おし》んだりしていた。仁右衛門が取合わないので彼女はさすがに小屋の中には這入らなかった。そして皺枯《しわが》れた声でおめき叫びながら雨の中を帰って行ってしまった。仁右衛門の口の辺にはいかにも人間らしい皮肉な歪《ゆが》みが現われた。彼れは結局自分の智慧《ちえ》の足りなさを感じた。そしてままよと思っていた。
凡《すべ》ての興味が全く去ったのを彼れは覚えた。彼れは少し疲れていた。始めて本統《ほんとう》の事情を知った妻から嫉妬《しっと》がましい執拗《しつこ》い言葉でも聞いたら少しの道楽気《どうらくげ》もなく、どれほどな残虐な事でもやり兼ねないのを知ると、彼れは少し自分の心を恐れねばならなかった。彼れは妻に物をいう機会を与えないために次から次へと命令を連発した。そして晩《おそ》い昼飯をしたたか喰った。がらっと箸《はし》を措《お》くと泥だらけなびしょぬれな着物のままでまたぶらりと小屋を出た。この村に這入りこんだ博
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