奥をすかして見た。しんとした夜の静かさの中で悪謔《からか》うような淫《みだ》らな女の潜み笑いが聞こえた。邪魔の入ったのを気取《けど》って女はそこに隠れていたのだ。嗅ぎ慣れた女の臭《にお》いが鼻を襲ったと仁右衛門は思った。
「四つ足めが」
叫びと共に彼れは疎藪《ぼさ》の中に飛びこんだ。とげとげする触感が、寝る時のほか脱いだ事のない草鞋《わらじ》の底に二足三足感じられたと思うと、四足目は軟いむっちりした肉体を踏みつけた。彼れは思わずその足の力をぬこうとしたが、同時に狂暴な衝動に駈《か》られて、満身の重みをそれに托《たく》した。
「痛い」
それが聞きたかったのだ。彼れの肉体は一度に油をそそぎかけられて、そそり立つ血のきおいに眼がくるめいた。彼れはいきなり女に飛びかかって、所きらわず殴ったり足蹴《あしげ》にしたりした。女は痛いといいつづけながらも彼れにからまりついた。そして噛《か》みついた。彼れはとうとう女を抱きすくめて道路に出た。女は彼れの顔に鋭く延びた爪をたてて逃れようとした。二人はいがみ合う犬のように組み合って倒れた。倒れながら争った。彼れはとうとう女を取逃がした。はね起きて追いにかかると一目散に逃げたと思った女は、反対に抱きついて来た。二人は互に情に堪えかねてまた殴ったり引掻《ひっか》いたりした。彼れは女のたぶさ[#「たぶさ」に傍点]を掴《つか》んで道の上をずるずる引張って行った。集会所に来た時は二人とも傷だらけになっていた。有頂天になった女は一塊の火の肉となってぶるぶる震えながら床の上にぶっ倒れていた。彼れは闇の中に突っ立ちながら焼くような昂奮《こうふん》のためによろめいた。
(四)
春の天気の順当であったのに反して、その年は六月の初めから寒気と淫雨《いんう》とが北海道を襲って来た。旱魃《かんばつ》に饑饉《ききん》なしといい慣わしたのは水田の多い内地の事で、畑ばかりのK村なぞは雨の多い方はまだ仕やすいとしたものだが、その年の長雨には溜息を漏《もら》さない農民はなかった。
森も畑も見渡すかぎり真青になって、掘立小屋《ほったてごや》ばかりが色を変えずに自然をよごしていた。時雨《しぐれ》のような寒い雨が閉ざし切った鈍色《にびいろ》の雲から止途《とめど》なく降りそそいだ。低味《ひくみ》の畦道《あぜみち》に敷ならべたスリッパ材はぶかぶかと水のために浮き
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