眺めている。ヤコフ・イリイッチは忘れた様に船渠《ドック》の方を見遣って居る。
 話柄が途切れて閑《しん》とすると、暑さが身に沁みて、かんかん日のあたる胴の間に、折り重なっていぎたなく寝そべった労働者の鼾が聞こえた。
 ヤコフ・イリイッチは徐ろに後ろを向いて、眠れる一群に眼をやると、振り返って私を※[#「鍔」の「金」に代えて「月」、第3水準1−90−51]でしゃくった。
 見ろい、イフヒムの奴を。知ってるか、「癇癪玉」ってんだ綽名が――知ってるか彼奴を。
 さすがに声が小さくなる。
 イフヒムと云うのはコンスタンチノープルから輸入する巻煙草の大箱を積み重ねた蔭に他の労働者から少し離れて、上向きに寝て居る小男であった。何しろケルソン市だけでも五百人から居る所謂かんかん虫の事であるから、縦令市の隅から隅へと漂泊して歩いた私でも、一週間では彼等の五分の一も親交《ちかづき》にはなって居なかったが、独りイフヒムは妙に私の注意を聳やかした一人であった。唯一様の色彩と動作との中にうようよと甲板の掃除をして居る時でも、船艙の板囲いにずらっと列んで、尻をついて休んで居る時でも、イフヒムの姿だけは、一団の労
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