な》に、今にも又、不公平な運命の災厄《さいやく》がこの身の上に落ちかゝりはしないかと怖《お》ぢ恐れ、維持力がなくなるのであつた。
暑中休暇が来て山の家に帰つた五日目、それのみ待たされた成績通知簿が届いた。三四の科目のほか悉《こと/″\》く九十点を取つてゐるのに、今度から学期毎に発表記入されることになつた席次は九十一番だつた。私はがつかりした。私は全く誰かの言葉に違《たが》はず、確かに低能児であると思ひ、もう楽しみの谷川の釣も、山野の跋渉《ばつせふ》も断念して、一と夏ぢゆう欝《ふさ》ぎ切つて暮した。九月には重病人のやうに蒼《あを》ざめて寄宿舎に帰つた。私はどうも腑《ふ》に落ちないので、おそる/\川島先生に再検査を頼むと九番であつたことが分つた。「君は悔悛《くわいしゆん》して勉強したと見えて、いゝ成績だつた」と、初めてこぼれるやうな親しみの笑顔を見せた。私は狂喜した。かうした機会から川島先生の私への信用は俄《にはか》に改まつた。私の度重なる怨《うら》みはたわいなく釈然とし、晴々として翼でも生えてひら/\とそこら中を舞ひ歩きたいほど軽い気持であつた。一週日経つてから一級上の川島先生の乱暴な息子が、学校の告知板の文書を剥《は》ぎ棄《す》てた科《とが》で処分の教員会議が開かれた折、ひとり舎監室で謹慎してゐた川島先生は、通りがゝりの私を廊下から室の中に呼び入れ、「わすの子供も屹度停学処分を受けることと思ふが、それでも君のやうに心を入れかへる機縁になるなら、わすも嬉しいがのう」と黯然《あんぜん》とした涙声で愬《うつた》へた。私の裡《うち》に何んとも言へぬ川島先生へ気の毒な情が湧《わ》き出るのを覚えた。
ほど無く私は幾らかの喝采《かつさい》の声に慢心を起した。そして何時《いつ》しか私は、独《ひと》りぼつちであらうとする誓約を忘れてしまつたのであらうか。強《あなが》ち孤独地獄の呻吟《しんぎん》を堪へなく思つたわけではないが、或偶然事が私を伊藤に結びつけた。伊藤は二番といふ秀才だしその上活溌|敏捷《びんせふ》で、さながら機械人形の如く金棒に腕を立て、幅跳びは人の二倍を飛び、木馬の上に逆立ち、どの教師からも可愛がられ、組の誰にも差別なく和合して、上級生からでさへ尊敬を受けるほど人気があつた。彼は今は脱落崩壊の状態に陥つてゐるが夥しい由緒《ゆゐしよ》ある古い一門に生れ、川向うの叔母の家からぴか/\磨いた靴を穿いて通学してゐた。朝寄宿舎から登校する私を、それまではがや/\と話してゐた同輩達の群から彼は離れて、おーい、お早う、と敏活な男性そのもののきび/\した音声と情熱的な眼の美しい輝きとで迎へた。私は悩ましい沈欝《ちんうつ》な眼でぢつと彼を見守つた。二人は親身の兄弟のやうに教室に出入りや、運動場やを、腕を組まんばかりにして歩いた。青々とした芝生の上にねころんで晩夏の広やかな空を仰いだ。学課の不審を教へて貰《もら》つた。柔道も二人でやつた。君はそれ程強くはないが粘りつこいので誰よりも手剛《てごは》い感じだと、さう言つて褒《ほ》めたと思ふと、彼独得の冴《さ》えた巴投《ともゑな》げの妙技を喰はして、道場の真中に私を投げた。跳ね起きるが早いか私は噛《か》みつかんばかりに彼に組みついた。彼は昂然《かうぜん》とゆるやかに胸を反《そ》らし、踏張つて力む私の襟頸《えりくび》と袖とを持ち、足で時折り掬《すく》つて見たりしながら、実に悠揚《いうやう》迫らざるものがある。およそ彼の光つた手際は、学問に於いて、運動に於いて、事毎にいよ/\私を畏《おそ》れさせた。このやうな、凡《すべ》て、私には身の分を越えた伊藤との提携を、友達共は半ば驚異の眼と半ば嫉妬《しつと》の眼とで視《み》た。水を差すべくその愛は傍目《はため》にも余り純情で、殊更《ことさら》らしい誠実を要せず、献身を要せず、而《しか》も聊《いさゝか》の動揺もなかつた。溢《あふ》るゝ浄福、和《なご》やかな夢見心地、誇りが秘められなくて温厚な先生の時間などには、私は柄にもなく挑戦し、いろ/\奇矯《きけう》の振舞をした。
Y中学の卒業生で、このほど陸軍大学を首席で卒業し、恩賜の軍刀を拝領した少佐が、帰省のついでに一日母校の漢文の旧師を訪《たづ》ねて来た。金モールの参謀肩章を肩に巻き、天保銭《てんぽうせん》を胸に吊つた佐官が人力車で校門を辞した後姿を見送つた時、さすがに全校のどんな劣等生も血を湧かした。
「ウヽ、芳賀《はが》君の今日《こんにち》あることを、わしは夙《つと》に知つとつた。芳賀君は尤《もつと》も頭脳も秀《ひい》でてをつたが、彼は山陽の言うた、才子で無うて真に刻苦する人ぢやつた」と、創立以来勤続三十年といふ漢文の老教師は、癖になつてゐる鉄縁の老眼鏡を気忙《きぜは》しく耳に挟《はさ》んだり外《はづ》したりし乍《なが
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