ら引き退げようと、何程陰に陽に父に含めてゐたかもしれなかつたから。私は午前中だけ野良《のら》に出て百姓の稽古《けいこ》をし、午後は講義録を読んだ。私は頓《とみ》に積年の重たい肩の荷を降した気がした。こゝでは、誰と成績を競ふこともなく、伊藤も、ばア様も、川島舎監長も、下駄屋の亭主もゐなかつた。在《あ》るものは唯《たゞ》解放であつた。私は小さいながら浮世の塵《ちり》を彼方に遠く、小ぢんまりした高踏に安んじ、曇りのない暫時の幸福なり平安なりを貪《むさぼ》つてゐた。
 が、飽くことない静穏、それ以上不足を感じなかつた世と懸け離れた生活も、束《つか》の間《ま》の仇《あだ》なる夢であつた。父の生命の全部、矜《ほこ》りの全部としてゐる隣人に対する偽善的行為に、哀れな売名心に、さうした父の性格の中の嘘をそつくり受け継いでゐて何時も苛々《いら/\》してゐる私は、苦もなく其処《そこ》に触れて行つて父を衝撃した。私と父とは、忽ち諍《いさか》ひ、忽ち和解し、誰よりも深く憎み、誰よりも深く赦《ゆる》した。夜中の喚《わめ》き罵《のゝし》る声に驚いて雨戸まで開けた近所の人達は朝には肩を並べて牛を引いて田圃《たんぼ》に出て行く私共父子を見て呆気《あつけ》にとられた。臆病に、大胆に、他を傷つけたり、疑つたり、連日連夜の紛争と愛情の交錯とはいよ/\こじれて、長時の釈《と》け難い睨《にら》み合《あ》ひの状態になつた。
 家庭の風波の渦巻の中で私は雪子の面影を抱いて己を羽含《はぐゝ》んだ。雪子はまだ高等小学の一年生で、私の家から十町と隔たらない十王堂の高い石段の下の栗林の中に彼女の家はあつた。私が八歳の幼時、春風が戸障子《としやうじ》をゆすぶる日の黄昏《たそがれ》近くであつたが、戸口の障子を開けると、赤い紐《ひも》の甲掛草履《かふがけざうり》を穿《は》いたお河童《かつぱ》の雪子が立つてゐた。何うして遊びに来たものか、たゞ、風に吹かれて紛れ込んだ木の葉のやうなものであつた。私は雪子の手を引いて母の手もとに届けてやつた。偶然に見染めた彼女の幻はずつと眼から去らず、或年の四月の新学期に小学校に上つて来た彼女を見附けた日は私は、一夜うれしさに眠就《ねつ》かれなかつた。相見るたびに少年少女ながら二人は仄《ほの》かな微笑と首肯《うなづき》との眼を交はし、唇を動かした。私は厚かましく彼女の教室を覗《のぞ》き、彼女の垂髪
前へ 次へ
全30ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
嘉村 礒多 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング