に差出したかと思ふと、瞬間、手を引つ込めて、
「A君、これタヾかね?」と、唇を尖らした。
「いや/\、のちほど、どつさり荷物自動車でお屆けいたしますから」
「さうですか。たんもり持つて來て下さい。ハヽヽヽハ」
 Z・K氏は愉快で堪らなかつた。たうとう私達を酒屋の爺さんとこへ誘つた。
 酒屋へは、有本老人、疊屋の吉さん、表具屋の主人、などコップ酒の常連が詰掛けて、足相撲をやつてゐた。溜つた酒代の貸前が入つて上機嫌の爺さんが盆に載せて出したコップの冷酒を一氣に呷《あふ》つたZ・K氏は、「さあ、片つ端から、おれにかゝつて來い」と、尻をまくつて痩脛を出した。有本老人はじめ「あツ、痛い、先生にはかなはん」と、後につゞく二三人もばた/\負けて脹脛《こむら》をさすつてゐるのを、私とAさんとは上框《あがりかまち》に腰掛けて見てゐた。最後にZ・K氏は、恰幅の好いAさんに頻《しき》りに勝負を挑んだが、温厚で上品なAさんは笑つて相手にならなかつた。その時、どうした誘惑からか、足相撲などに一度の經驗もない私は、
「先生、私とやりませう」と、座敷へ飛び上つた。
「ヘン、君がか、笑はせらあ、老ライオンの巨口に二十日鼠一匹――と言ひたいところですなあ。口直しにも何んにもなりやせん。ヘヽヽヽだ」
 二人は相尻居して足と足を組み當てた。
「君、しつかり……」
「先生から……」
 Z・K氏は、小馬鹿にしてつん出してゐた頤《あご》を何時の間にか引いて、唇を結んでいきみ出した。
 痩せ細つたZ・K氏の脛の剃刀《かみそり》のやうな骨が自分の肉に切れ込んで來て、コリ/\と言つた骨を削り取られる音が聞えるやうな氣がしたが私は兩手で膝坊主を抱いて、火でも噴きさうな眼を閉ぢて、齒を喰ひしばつた。
「……おいら、負けた、もう一遍。もう一遍やり直さう……何に、やらん? 卑怯だよ卑怯だよ……待て待て、こら、待たんか……」
 その聲を聞き棄てて、私は時を移さずAさんと一しよに屋外へ出た。世田ヶ谷中學前の暗い石ころ道を、ピリツ/\と火傷のやうに痛む足を引きずり乍らAさんの後について夜更の停留場へ急いだが、きたない薄縁《うすべり》の上にぺちやんこに捩伏せた時の、Z・K氏の強い負け惜しみを苦笑に紛らさうとした顏を思ふと、この何年にもない痛快な笑ひが哄然と込みあげたが、同時に、さう長くは此世に生を惠まれないであらうZ・K氏――いや、私がいろ/\の意味で弱り勝ちの場合、あの苛烈な高ぶつた心魂をば、ひとへに生涯の宗《そう》と願ふべきである我が狸洲先生(かれは狸洲と號した)に、ずゐぶん御無禮だつたことが軈《やが》て後悔として殘るやうな氣がした。
[#地から1字上げ](昭和四年)



底本:「日本文學全集 34 梶井基次郎 嘉村礒多 中島敦集」新潮社
   1962(昭和37)年4月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:伊藤時也
校正:小林繁雄
2001年2月21日公開
2005年12月4日修正
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