やつた。或日私は堪りかねて催促がましい口を利くと、明日はS社で二百兩借りて來いと命じたので、斷じて出來ませんと答へるとZ・K氏は少時《しばらく》私をぢつと見据ゑたが、くそ垂れ! 手前などと酒など飮む男かよ、Z・Kともあらう男が! と毒吐《どくづ》き出して、折から夫人が怫然《ふつぜん》と色を爲した私に吃驚《びつくり》して、仲裁を頼みに酒屋の爺さんを呼びに行つて、小腰をかゞめてチヨコチヨコ遣つて來た爺さんが玄關を上るなり、Z・K氏は、爺さん/\、僕この小僧つ子に馬鹿にされたよと言つた。私はお叩頭《じぎ》ひとつして默つて退いた。C雜誌の若い記者が、この角を曲るとめそ/\泣けて來ると言つたその杉籬《すぎがき》に添つた曲り角まで來ると、私も思はず不覺の涙を零《こぼ》した。が私はこゝで、一簣《いつき》にして止めてはならぬ。
肚《はら》の蟲を殺して翌日は午前に出向くと、Z・K氏は大層喜んで、君昨夜は失敬、僕醉拂つてゐたもので、それにしても好く來てくれましたと丁寧に詫びて、夫人に向つて、これ/\、酒屋の爺さんにKさん來てくれたことを傳へて來い、爺さんひどく氣遣つてゐたから、と言付けた。夫人があたふたと出て行くと、Z・K氏は褌を緊め直して眞つ裸のまま一閑張の机に向ひ、神妙に膝頭に手を置いて苦吟し出した面貌に接すると、やはり、羸鶴《るゐかく》寒木に翹《つまだ》ち、狂猿古臺に嘯《うそぶ》く――といつた風格、貧苦病苦と鬪ひながら、朝夕に藝道をいそしむ、このいみじき藝術家に對する尊敬と畏怖との念が、一枚一圓の筆記料の欲しさもさること乍ら、まア七十日を、大雨の日も缺かさず通ひ詰めさせたといふものだらう……
あれこれと筆記中、肺を煩ふZ・K氏に對して思ひ遣りなく息卷いた自分の態度が省みられたりしてゐるうち、何時か三宿に着いた。
「さうでしたか、それで安心しました。實はS社のはうからお禮が出ないとすると、僕何處かで借りてもあなたにお禮しようと思つたところなんでした。……あ、あ、さう/\、主幹の方が行き屆いた方だから……さうでしたか、僕も安心しました。長々御苦勞さん。これからはあなたの勉強が大事。まあ一杯」
獨酌の盃を置いてZ・K氏は斯う優しく言つてから、私に盃を呉れた。
「發表は新年號? さうですか。どうでせう、失敗だつたかな、僕はあれで好いとは思ふけれど……君はどう思ひます?」
世評を氣にしてさう言ふZ・K氏も、言はれる私も、しばし憮然《ぶぜん》として言葉が無かつた。
が、だん/\醉ひが廻つて來た時、
「K君、君を澁谷まで送つて行くべえ、二十圓ほど飮まうや……。玉川にしようか」
「また、そんなことを言ふ、Kさんだつて、お歸んなすつて奧さんにお見せなさらなければなりませんよ。いつも人さまの懷中を狙ふ、惡い癖だ!」
と、夫人が血相變へて臺所から飛んで來た。
「何んだ、八十圓はちと多過ぎらあ、二十圓パ飮んだかつていゝとも、さあ、着物を出せ」
「お父さん、そんな酷《ひど》いことどの口で言へますか。Kさんだつて、七十日間の電車賃、お小遣、そりや少々ぢやありませんよ。玉川へでも行つたら八十圓は全部お父さん飮んじまひますよ。そんなことをされてKさんどう奧さんに申譯がありますか!」
夫人は起ちかけたZ・K氏を力一ぱい抑へにかゝつた。
夫人に言はれる迄もなく、石垣からの照り返しの強い崖下の荒屋で、筆記のための特別の入費を内職で稼ぎ出した私の女にも、私は不憫《ふびん》と義理とを忘れてはならない。アーン、アン/\と顏に手を當ててぢだんだを踏んで泣き喚いても足りない思ひをしてる時、途端、ガラツと格子戸が開いて、羽織袴の、S社の出版部のAさんが、玄關に見えた。
私は吻《ほつ》として、この難場の救主に、どうぞ/\と言つて、自分の座蒲團の裏を返してすゝめた。
「先生、突然で恐縮ですが、來年の文章日記へ、ひとつご揮毫《きがう》をお願ひしたいんですが、どうか枉《ま》げてひとつ……」
二こと三こと久闊の挨拶が取交はされた後、Aさんは手を揉みながら物馴れた如才ない口調で斯う切り出した。
「我輩、書くべえか……K君、どうしよう、書いてもいゝか?」
それは是非お書きになつたらいゝでせうと、私はAさんに應援する風を裝つて話を一切そつちに移すやう上手にZ・K氏に焚き附けた。机邊に戲《たはむ》れるユウ子さんを見て、「われと遊ぶ子」と書かうかとか、いや、「互に憐恤《れんじゆつ》あるべし」に決めようとZ・K氏の言つてゐる、そのバイブルの章句に苦笑を覺えながらも、やれ/\助かつたはと安堵の太息を吐き/\、私は墨をすつたり筆を洗つたりした。
感興の機勢で直ぐ筆を揮《ふる》つたZ・K氏は、縱長い鳥子紙の見事な出來榮えにちよつと視入つてゐたが、くる/\器用に卷いて、では、これを、とAさんの前
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