にしてさう言ふZ・K氏も、言はれる私も、しばし憮然《ぶぜん》として言葉が無かつた。
が、だん/\醉ひが廻つて來た時、
「K君、君を澁谷まで送つて行くべえ、二十圓ほど飮まうや……。玉川にしようか」
「また、そんなことを言ふ、Kさんだつて、お歸んなすつて奧さんにお見せなさらなければなりませんよ。いつも人さまの懷中を狙ふ、惡い癖だ!」
と、夫人が血相變へて臺所から飛んで來た。
「何んだ、八十圓はちと多過ぎらあ、二十圓パ飮んだかつていゝとも、さあ、着物を出せ」
「お父さん、そんな酷《ひど》いことどの口で言へますか。Kさんだつて、七十日間の電車賃、お小遣、そりや少々ぢやありませんよ。玉川へでも行つたら八十圓は全部お父さん飮んじまひますよ。そんなことをされてKさんどう奧さんに申譯がありますか!」
夫人は起ちかけたZ・K氏を力一ぱい抑へにかゝつた。
夫人に言はれる迄もなく、石垣からの照り返しの強い崖下の荒屋で、筆記のための特別の入費を内職で稼ぎ出した私の女にも、私は不憫《ふびん》と義理とを忘れてはならない。アーン、アン/\と顏に手を當ててぢだんだを踏んで泣き喚いても足りない思ひをしてる時、途端、ガラツと格子戸が開いて、羽織袴の、S社の出版部のAさんが、玄關に見えた。
私は吻《ほつ》として、この難場の救主に、どうぞ/\と言つて、自分の座蒲團の裏を返してすゝめた。
「先生、突然で恐縮ですが、來年の文章日記へ、ひとつご揮毫《きがう》をお願ひしたいんですが、どうか枉《ま》げてひとつ……」
二こと三こと久闊の挨拶が取交はされた後、Aさんは手を揉みながら物馴れた如才ない口調で斯う切り出した。
「我輩、書くべえか……K君、どうしよう、書いてもいゝか?」
それは是非お書きになつたらいゝでせうと、私はAさんに應援する風を裝つて話を一切そつちに移すやう上手にZ・K氏に焚き附けた。机邊に戲《たはむ》れるユウ子さんを見て、「われと遊ぶ子」と書かうかとか、いや、「互に憐恤《れんじゆつ》あるべし」に決めようとZ・K氏の言つてゐる、そのバイブルの章句に苦笑を覺えながらも、やれ/\助かつたはと安堵の太息を吐き/\、私は墨をすつたり筆を洗つたりした。
感興の機勢で直ぐ筆を揮《ふる》つたZ・K氏は、縱長い鳥子紙の見事な出來榮えにちよつと視入つてゐたが、くる/\器用に卷いて、では、これを、とAさんの前
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