。そして電柱に靠《もた》れて此方を見送つてゐる千登世と、圭一郎も車掌臺の窓から互ひに視線を凝《ぢ》つと喰ひ合してゐたが、軈《やが》て、風もなく麗かな晩秋の日光を一ぱいに浴びた靜かな線路の上を足早に横切る項低《うなだ》れた彼女の小さな姿が幽かに見えた。
 永代橋《えいたいばし》近くの社に着くと、待構へてゐた主人と、十一月二十日發行の一面の社説についてあれこれ相談した。逞しい鍾馗髯《しようきひげ》を生やした主人は色の褪《あ》せた舊式のフロックを着てゐた。これから大阪で開かれる全國清酒品評會への出席を兼ねて伊勢參宮をするとのことだつた。猶それから白鷹《はくたか》、正宗、月桂冠壜詰の各問屋主人を訪ひ業界の霜枯時に對する感想談話を筆記して來るやうにとのことをも吩咐《いひつ》けて置いてそしてあたふたと夫婦連で出て行つた。
 主人夫婦を玄關に送り出した圭一郎は、急いで二階の編輯室に戻つた。仕事は放擲《うつちや》らかして、机の上に肘を突き兩掌でぢくり/\と鈍痛を覺える頭を揉んでゐると、女中がみしり/\梯子段《はしごだん》を昇つて來た。
「大江さん、お手紙」
「切拔通信?」
「いゝえ。春子より、としてあるの、大江さんのいゝ方でせう。ヒツヒツヒヽ」
 圭一郎は立つて行つた、それを女中の手から奪ふやうにして※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ取つた。痘瘡《もがさ》の跡のある横太りの女中は巫山戲《ふざけ》てなほからかはうとしたが、彼の不愛嬌な顰《しか》め面を見るときまりわるげに階下へ降りた。そして、も一人の女中と何か囁き合ひ哄然《どつ》と笑ふ聲が聞えて來た。
 圭一郎は胸の動悸を堪へ、故郷の妹からの便りの封筒の上書を、充血した眼でぢつと視つめた。
 圭一郎は遠いY縣の田舍に妻子を殘して千登世と駈落ちしてから四ヶ月の月日が經つた。最初の頃、妹は殆ど三日にあげず手紙を寄越し、その中には文字のあまり達者でない父の代筆も再三ならずあつた。彼はそれを見る度見る度に針を呑むやうな呵責《かしやく》の哀しみを繰返す許りであつた。身を切られるやうな思ひから、時には見ないで反古《ほご》にした。返事も滅多に出さなかつたので、近頃妹の音信《たより》もずゐぶん遠退いてゐた。圭一郎は今も衝動的に腫物《はれもの》に觸るやうな氣持に襲はれて開封《ひら》くことを躊躇《ちうちよ》したが、と言つて見ないではす
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