》いたなりに、首を捻《ね》ぢ向けて、お文の方を見た。
「福造の居よる時から、さう言うてたがな、お文よりお磯の方がえゝちうて、福島と島やさかい、磯と文句が続いてえゝと、私《わし》が福造に言うてたがな。……それで書いて来よつたんや。われの名も福島福造……は福があり過ぎて悪いよつて、福島理記といふのが、劃の数が良いさかい、理記にせいと言うてやつたんやが、さう書いて来よれへんか。……私んとこへおこしよつたのには、ちやんと理記と書いて、宛名も福島照久様としてよる。源太郎とはしよらへん。」
 好きな姓名判断の方へ、源太郎は話を総《すべ》て持つて行かうとした。
「やゝこし[#「やゝこし」に傍点]おますな、皆んな名が二つつゝあつて。……けど福造を理記にしたら、少しは増しな人間になりますか知らん。」
 世間話をするやうな調子を装うて、お文は家出してゐる夫の判断を聞かうとした。
「名を変へてもあいつ[#「あいつ」に傍点]はあかんな。」
 そツ気なく言つて、源太郎は身体を真ツ直ぐに胡坐《あぐら》をかき直した。お文はあがつた蒲焼と玉子焼とを一寸|検《あらた》めて、十六番の紙札につけると、雇女に二階へ持たしてやつた。
「この間も、選名術の先生に私のことを見て貰うた序《ついで》に聞いてやつたら、福島福造といふ名と四十四といふ年を言うただけで、先生は直《ぢ》きに、『この人はあかんわい、放蕩者で、其の放蕩は一生止まん。止む時は命数の終りや。性質が薄情残酷で、これから一寸頭を持ち上げることはあつても、また失敗して、そんなことを繰り返してる中にだんだん悪い方へ填《はま》つて行く』と言やはつたがな。ほんまに能《よ》う合うてるやないか。」
 到頭詰まつて了《しま》つた煙管を下に置いて、源太郎は沈み切つた物の言ひやうをした。お文は聞えぬ振りをして、板場の方を向いたまゝ、厭な厭な顔をしてゐた。

       三

 源太郎がまた俯いて、読みかけの長い手紙を読まうとした時、下の河中《かはなか》から突然大きな声が聞えた。
「おーい、……おーい、……讃岐屋《さぬきや》ア。……おーい、讃岐屋ア。」
 重い身体を、どツこいしよと浮かして、源太郎が腰|硝子《ガラス》の障子を開け、水の上へ架《か》け出した二尺の濡れ縁へ危さうに片足を踏み出した時、河の中からはまた大きな声が聞えた。
「おーい、讃岐屋ア。……鰻で飯を二人前呉れえ。」
「へえ、あの……」と、変な返事をして、源太郎は河の中を覗き込んだが、色変りの広告電燈が眩《まぶ》しく映るだけで、黒く流れた水の上のことは能く分らなかつた。
「をツ[#「をツ」に傍点]さん、をツ[#「をツ」に傍点]さん。」と、お文の声が背後から呼ぶので、銀場を振り返ると、お文は両手を左の腰の辺に当てて、長いものを横たへた身振りをして見せた。
「あゝ、サーベルかいな。」
 漸く合点《がてん》の行つた源太郎は、小さい声でかうお文に答へて、
「へえ、今直きに拵《こしら》へて上げます。」と、黒い水の上に向つて叫んだ。
「さうか、早くして呉れ。」といふ声の方を、瞳を定めてヂツと見下すと、真下の石垣にぴツたりと糊付《のりづけ》か何かのやうにくツ付いて、薄暗く油煙に汚れた赤い灯の点いてゐる小さな舟の中に、白い人影がむくむくと二つ動いてゐた。其の白い人影の一つが急に黒くなつたのは、外套を着たのらしかつた。
 通し物の順番を追はずに、板前を急がせた水の上からの註文は直ぐ出来て、別に添へた一品の料理と香の物、茶瓶なぞとともに、こんな時の用意に備へてある長い綱の付いた平たい籠に入れて、源太郎の手で水の上へ手繰《たぐ》り下された。
「サンキユー。」と、妙な声が水の上から聞えたので、源太郎は馬鹿馬鹿しさうに微笑を漏らした。
 雇女が一人三畳へ入つて来て、濡れ縁へ出て対岸《むかうぎし》の紅い灯を眺めながら、欄干を叩いて低く喇叭節《らつぱぶし》を唄つてゐたが、藪から棒に、
「上町の旦那はん、……八千代はん、えらうおまんな。この夏|全《まる》で休んではりましたんやな。……もう出てはりますさうやけど、お金もたんと[#「たんと」に傍点]出来ましたんやろかいな。」と、源太郎に向つて言つた。
 随一の名妓と唄はれてゐる、富田屋の八千代の住む加賀屋といふ河沿ひの家のあたりは、対岸でも灯の色が殊に鮮かで、調子の高い撥《ばち》の音も其の辺から流れて来るやうに思はれた。空には星が一杯で、黒い河水に映る両岸の灯《ひ》と色を競ふやうであつた。
 名妓の噂を始めた縮れ毛の、色の黒い、足の大きな雇女は、源太郎が何とも言はぬので、また欄干を叩いて喇叭節をやり出した。
 手紙を前に披《ひろ》げて、ヂツと腕組をしてゐた源太郎は、稍《やゝ》暫くしてから、空《から》になつた食器が籠に入つて雇女の手で河の中から迫《せ》り上つ
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
上司 小剣 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング