て来たのを見たので、突然銀場の方を向いて、
「これ、何んぼになるんやな。」と頓狂な声を出した。
「よろしおますのやがな、お序《ついで》の時にと、さう言はしとくなはれ。」
 算盤《そろばん》を弾きながら、お文が向うむいたまゝで言つたのと、殆んど同時に、総てを心得てゐる雇女は、濡れ縁から下を覗き込んで、
「よろしおます、お序の時で。」と高く叫んだ。水の上からも何か言つてゐるやうであつたが、意味は分らなかつた。やがて、赤い灯の唯一つ薄暗く煤《すゝ》けて点いてゐる小舟は、音もなく黒い水の上を滑つて、映る両岸の灯の影を乱しつゝ、暗《やみ》の中に漕ぎ去つた。

       四

 腕組をして考へてゐた源太郎は、また俯《うつぶ》いて長い手紙に向つた。さうして今度は口の中で低く声を立てて読んでゐたが、読み終るまでに稍長いことかゝつた。
 お文は銀場から、その鋭い眼で入り代り立ち代る客を送り迎へして、男女二十八人の雇人を万遍《まんべん》なく立ち働かせるやうに、心を一杯に張り切つてゐた。夜の更けようとするに連れて、客の足はだん/\繁くなつた。暖簾《のれん》を掲げた入口から、丁字形に階下の間と二階の階子段とへ通ふ三和土《たゝき》には、絶えず水が撒《ま》かれて、其の上に履物の音が引ツ切りなしに響いた。
 これから芝居の閉場《はね》る前頃を頂上として、それまでの一戦と、お文は立つて帯を締め直したが、時々は背後を振り向いて、手紙を読んでゐる叔父の気色を窺《うかゞ》はうとした。
「二十円送れ……と書いてあるやないか。」と、源太郎は眼をクシヤクシヤさしてお文の方を見た。
「さうだすな。」と、お文は軽く他人のことのやうに言つた。
「福造の借銭は、一体何んぼあるやらうな。」
 畳みかけるやうにして、源太郎が言つたので、お文は忙しい中で胸算用をして、
「千円はおますやらうな。」と、相変らず世間話のやうに答へた。
「この前に出よつた時は千二百円ほど借銭をさらすし、其の前の時も彼れ是れ八百円はあつたやないか。……今度の千円を入れると、三千円やないか。……高価《たか》い養子やなア。」
 自然と皮肉な調子になつて来た源太郎の言葉を、お文は忙しさに紛《まぎ》らして、聞いてはゐぬ風をしながら、隅の方の暗いところでコソ/\話をしてゐる男女二人の雇人を見付けて、
「留吉にお鶴は何してるんや。この忙しい最中に……これだけの人数が喰べて行かれるのは、商売のお蔭やないか。商売を粗末にする者は、家に置いとけんさかいな、ちやツちや[#「ちやツちや」に傍点]と出ていとくれ。」と、癇高い声を立てた。男女二人の雇人は、雷に打たれたほどの驚きやうをして、パツと左右に飛んで立ち別れた。
「味醂《みりん》屋へまた二十円貸せちうて来たんやないか……味醂屋にはこの春家出する時三十円借りがあるんやで。能《よ》うそんな厚かましいことが言はれたもんやな。」
 何処までも追つかけるといつた風に、源太郎は、福造の棚卸《たなおろし》をお文の背中から浴びせた。
「味醂屋どこやおまへん。去年家にゐて出前持をしてたあの久吉な、今島の内の丸利にゐますのや。あそこへいて、この春久吉に一円借せと言ひましたさうだツせ。困つて来ると恥も外聞も分りまへんのやなア。」
 また世間話をするやうな、何気ない調子に戻つて、お文は背後《うしろ》を振り返り振り返り、叔父の言葉に合槌を打つた。
「味醂屋や酒屋や松魚節《かつを》屋の、取引先へ無心を言うて来よるのが、一番|強腹《がうはら》やな……何んぼ借して呉れんやうに言うといても、先方《さき》では若《も》し福造が戻つて来よるかと思うて、厭々ながら借すのやが、無理もないわい。若しも戻つて来よると、讃岐屋の旦那はんやもんな。其の時復讐をしられるのが辛《つら》いよつてな。取引先も考へて見ると気の毒なもんや。」
 染々《しみ/″\》と同情する言葉つきになつて、源太郎は太い溜息を吐《つ》いた。
「饂飩《うどん》屋に丁稚《でつち》をしてた時から、四十四にもなるまで、大阪に居ますのやもん、生れは大和でも、大阪者と同じことだすよつてな。私等《わたへら》の知らん知人もおますよつて、あゝやつて東京へほつたらかし[#「ほつたらかし」に傍点]とくと、其処ら中へ無心状を出して、借銭の上塗をするばかりだす。困つたもんやなア。」
 漸く他人のことではないやうな物の言ひ振りになつて、お文は広く白い額へ青筋をビク/\動かしてゐた。
「あゝ、『鱧《はも》の皮を御送り下されたく候』と書いてあるで……何|吐《ぬ》かしやがるのや。」と、源太郎は長い手紙の一番終りの小さな字を読んで笑つた。
「鱧の皮の二杯酢が何より好物だすよつてな。……東京にあれおまへんてな。」
 夫の好物を思ひ出して、お文の心はさま/″\に乱れてゐるやうであつた。
「鱧の
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