どり、前こゞみになつて、客を迎へてゐる姿が、お文の初めてこの人形を見た幾十年の昔と少しも変つてゐないと思はれた。
 子供の折、初めてこのお多福人形を見てから、今日までに、随分さまざまのことがあつた。とお文はまたそんなことを考へて、これから後、この人形は何時までかうやつて笑ひ顔を続けてゐるであらうかと思つてみた。
「死んだおばん[#「おばん」に傍点]が、子供の時からあつたと言うてたさかい、余ツぽど古いもんやらうな。」
 かう言つて源太郎も、七十一で一昨年《をとゝし》亡《なくな》つた祖母が、子供の時にこのおかめ[#「おかめ」に傍点]人形を見た頃の有様を、いろ/\想像して見たくなつた。其の時分、千日前は墓場であつたさうなが、この辺はもうかうした賑やかさで、多くの人たちが、店に並んだ食物の匂を嗅ぎながら歩き廻つてゐたのであらうか。其の食物は皆人の腹に入つて、其の人たちも追々に死んで行つた。さうして後から/\と新らしい人が出て来て、食物を拵へたり、並べたり、歩き廻つたりしては、また追々に死んで行く。それをこのおかめ[#「おかめ」に傍点]人形は、かうやつて何時まで眺めてゐるのであらう。
 こんなことを考へながら、ぼんやり立つてゐる中に、源太郎はフラ/\とした気持になつて、
「今夜火事がいて、焼けて砕けて了《しま》ふやら知れん。」と、自分の耳にもハツキリと聞えるほどの独り言をいつて、自分ながらハツと気がついて、首を縮めながら四辺《あたり》を見廻した。
「何言うてなはるのや。……火事がいく、何処《どこ》が焼けますのや、……しよう[#「しよう」に傍点]もない、確《しつ》かりしなはらんかいな。」
 お文はにこ/\笑つて、叔父の袂《たもと》を引ツ張りつゝ言つた。
「さア早う入つて、善哉喰べようやないか。何ぐづ/\してるんや。」と、急に焦々《いら/\》した風をして、源太郎は善哉屋の暖簾を潜らうとした。
「をツ[#「をツ」に傍点]さん、をツ[#「をツ」に傍点]さん……そんなとこおき[#「おき」に傍点]まへう、此方へおい[#「おい」に傍点]なはれ。」と、お文はさツさと歩き出して、善哉屋の筋向うにある小粋《こいき》な小料理屋の狭苦しい入口から、足の濡れるほど水を撒いた三和土《たゝき》の上に立つた。小ぢんまりした沓脱石《くつぬぎいし》も、一面に水に濡れて、切籠《きりこ》形の燈籠の淡い光がそれに映つてゐた。
「あゝ、御寮人さん、お出でやす。まアお久しおますこと、えらいお見限りだしたな。さアお上りやす。」
 赤前垂の肥つた女は、食物を載せた盆を持つて、狭い廊下を通りすがりに、沓脱石の前に立つてゐるお文の姿を見出して、ペラ/\と言つた。
「上らうと思うて来たんやもん、上らずに去《い》ぬ気遣ひおまへん。」
 かう言つて駒下駄を沓脱石の上に脱ぎ棄てたお文の背中を、ポンと叩いて、赤前垂の女は、
「まア御寮人さん……」と、仰山《ぎょうさん》らしく呆《あき》れた表情をしたが、後から随《つ》いて入つて来た源太郎の大きな姿を見ると、
「お連れはんだツか。……何うぞお上り。さア此方へお出でやへえな。」と、優しく言つて、窮屈な階子段を二階へ案内した。
 茶室好みと言つたやうな、細そりした華奢《きやしや》な普請《ふしん》の階子段から廊下に、大きな身体を一杯にして、ミシ/\音をさせながら、頭の支《つか》へさうな低い天井を気にして、源太郎は二階の奥の方の鍵の手に曲つたところへ、女中とお文との後から入つて行つた。
「善哉《ぜんざい》なんぞ厭だすがな。こんなとこへ来るといふと、阿母アはんが怒りはるよつて、あゝ言ひましたんや。」
 向うの広間に置いた幾つもの衝立《ついたて》の蔭に飲食《のみくひ》してゐる、幾組もの客を見渡しつゝ、お文はさも快ささうに、のんびりとして言つた。
「御寮人さん、お出でやす。」
「御寮人はん、お久しおますな。」
 なぞと、痩せたのや肥えたのや、四五人の赤前垂の女中が代る/\出て来た。其の度にお文が白いのを鼻紙に包んで与《や》るのを、源太郎は下手な煙草の吸ひやうをしながら、眼を光らして見てゐる。
 肥つた女中は、チリン/\と小さく鈴の鳴るやうな音をさして、一つ一つ捻つた器具の載つてゐる杯盤を運んで来た。
「まア一つおあがりやへえな。」と、女中は盃洗の底に沈んでゐた杯を取り上げ、水を切つて、先づ源太郎に献《さ》した。源太郎は酌《さ》された酒の黄色いのを、しツぽく[#「しツぽく」に傍点]台の上に一寸見たなりで、無器用な煙草を止めずにゐた。
「こんな下等なとこやよつて、重亭や入船のやうに行きまへんが、お口に合ひまへんやろけど、まアあがつとくなはれ……なア姐《ねえ》はん。」
 自分に献された初めの一杯を、ぐツと飲み乾したお文は、かう言つてから、二度目の酌を女中にさせながら、
「姐
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