……其の外の口は損ばつかり。あんなことに手を出したらどん[#「どん」に傍点]ならん。……一切合財《いつさいがつさい》興行物はせんこと。店の名義は戻つてから身持を見定め、自分の借銭のかた[#「かた」に傍点]を付けてから、切り替へること。それから、何《ど》うあつても家出をせぬといふ一札を書くこと。……これだけを確《しつ》かり約束せんと、今度といふ今度は家の敷居|跨《また》がせん。」
もう四五年で七十の鐺《こじり》を取らうとする年の割には、皺の尠《すくな》い、キチンと調《とゝの》つた顔に力んだ筋を見せて、お梶は店の男女や客にまで聞える程の声を出した。
銀場のお文は知らぬ顔をして帳面を繰つてゐた。
六
夜も十時を過ぎると、表の賑ひに変りはないが、店はズツと閑《ひま》になつた。
「阿母《おか》アはん、今夜泊つて行きなはるとえゝな。……今から去《い》なれへん。」
漸《やつ》と自分の身体になつたと思はれるまでに、手の隙《す》いて来たお文は、銀場を空にして母の側に立つた。
「去ねんこともないが、寝た児を連れて電車に乗るのも敵《かな》はんよつて、久し振りや、そんなら泊つて行かう。……をツ[#「をツ」に傍点]さんは、もう去ぬか。」
其の日の新聞を披《ひろ》げた上に坐睡《ゐねむり》をしてゐた源太郎は、驚いた風でキヨロキヨロして、
「あゝ、去にます。」と、手を伸ばして姉の前の煙草入を納《しま》ひかけたが、煙管は先刻から煙草ばかり吸ひ続けてゐる姉が持つたまゝでゐた。
「狭いよつてなア此処は、……此処へ寝ると、昔淀川の三十石に乗つたことを思ひ出すなア。……食《くら》んか舟でも来さうや。」と、お梶は煙管を弟に返し、孫の寝姿に添うて横になつた。
「をツ[#「をツ」に傍点]さん、善哉《ぜんざい》でも喰べに行きまへうかいな。……久し振りや、阿母アはんに一寸銀場見て貰うて。……なア阿母アはん、よろしおまツしやろ。」
何もかも忘れて了つたやうに、気軽な物の言ひやうをして、お文は早や身支度をし始めた。
「いといで。眼がわるなつたけど、こなひだ[#「こなひだ」に傍点]までしてた仕事やもん、閑《ひま》な時の銀場ぐらゐ、これでも勤まるがな。」と身を起して、お梶はさツさ[#「さツさ」に傍点]と銀場へ坐つた。
「またもや御意の変らぬ中にや、……をツ[#「をツ」に傍点]さん、さア行きまへう。」
元気のよいお文を先きに立てて、源太郎は太い腰を曲げながら、ヨタヨタと店の暖簾《のれん》を潜《くゞ》つて、賑やかな道頓堀の通りへ出た。
「牛に牽《ひ》かれて善光寺参り、ちふけど、馬に牽かれて牛が出て行くやうやな。」と、お梶は眼をクシヤ/\さして、銀場も明るい電燈の下に微笑《ほゝゑ》みつゝ、二人の出て行くのを見送つた。
七
筋向うの芝居の前には、赤い幟《のぼり》が出て、それに大入の人数が記されてあつた。其処らには人々が真ツ黒に集まつて、花電燈の光を浴びつゝ、絵看板なぞを見てゐた。序幕から大切《おほぎり》までを一つ/\、俗悪な、浮世絵とも何とも付かぬものにかき現した絵看板は、芝居小屋の表つき一杯に掲げられて、竹に雀か何かの模様を置いた、縮緬《ちりめん》地の幅の広い縁を取つてあるのも毒々しかつた。
お文と源太郎とは、人込みの中を抜けて、褄《つま》を取つて行く紅白粉《べにおしろい》の濃い女や、萌黄《もえぎ》の風呂敷に箱らしい四角なものを包んだのを掲げた女やに摩《す》れ違ひながら、千日前《せんにちまへ》の方へ曲つた。
「千日前ちふとこは、洋服着た人の滅多に居んとこやてな。さう聞いてみると成るほどさうや。」と、源太郎は動《やゝ》もすると突き当らうとする群集に、一人でも多く眼を注ぎつゝ言つた。
「兵隊は別だすかいな。皆洋服着てますがな。」
例《いつ》もの軽い調子で言つて、お文はにこ/\と法善寺裏の細い路次へ曲つた。其処も此処も食物を並べた店の多い中を通つて、この路次へ入ると、奥の方からまた食物の匂が湧き出して来るやうであつた。
路次の中には寄席《よせ》もあつた。道が漸《やうや》く人一人行き違へるだけの狭さなので、寄席の木戸番の高く客を呼ぶ声は、通行人の鼓膜を突き破りさうであつた。芸人の名を書いた庵《いほり》看板の並んでゐるのをチラと見て、お文は其の奥の善哉屋の横に、祀《まつ》つたやうにして看板に置いてある、大きなおかめ[#「おかめ」に傍点]人形の前に立つた。
「このお多福古いもんだすな。何年|経《た》つても同《おんな》し顔してよる……大かたをツ[#「をツ」に傍点]さんの子供の時からおますのやろ。」
妙に感心した風の顔をして、お文はおかめ[#「おかめ」に傍点]人形の前を動かなかつた。笑み滴《こぼ》れさうな白い顔、下げ髪にした黒い頭、青や赤の着物の色
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