あった。手紙の方は村から一里余離れた富来《とぎ》町の清左衛門という呉服屋の次男で、つい先頃七尾の或る呉服屋へ養子に行った男から来たのであった。彼は養子に行く前には毎日此村へ呉服物の行商に来た男で、弟様《おっさま》といえば大抵誰にも通ずる程此村に出入して居た。恭三の家とは非常に懇意にして居たので、此処《こゝ》を宿にして毎日荷物を預けて置いて、朝来てはそれを担《にな》って売り歩いた。今度七尾へ養子に行ったのについて長々厄介になったという礼状を寄越したのであった。
 恭三は両方共読み終えたが、不図《ふと》した心のはずみで妙に間拍子が悪くなって、何でもない事であるのに、優しく説明して聞かせることが出来にくいような気持になった。で何か言われたら返事をする積りで煙草に火をつけた。
 蚊が頻《しき》りに攻めて来た。恭三は大袈裟《おゝげさ》に、
「非道い蚊だな!」と言って足を叩いた。
「蚊が居って呉れねば、本当に極楽やれど。」と母は毎晩口癖の様に言うことを言った。
 恭三は何時《いつ》までも黙って居るので、父は、
「読んだかい?」
「え、読みました。」と明瞭《はっきり》と答えた。
「何と言うて来たかい。」
「別に何でもありません。八重さのは暑中見舞いですし、弟様のは礼状です。」
「それだけか?」
「え、それッ限です。」
「ふーむ。」
 恭三の素気《そっけ》ない返事がひどく父の感情を害したらしい。それに今晩は酒が手伝って居る。それでも暫《しばら》くの間は何とも言わなかった。やがてもう一度「ふーむ」といってそれから独言《ひとりごと》の様に「そうか、何ちゅうのー。」と不平らしく恨めし相に言った。
 恭三は父の心を察した。済まないとは思ったが、さて何とも言い様がなかった。
「もう宜い、/\、お前に読んで貰わんわい、これから……。へむ、何たい。あんまり……。」
 恭三はつとめて平気に、
「このお父さまは何を仰有《おっしゃ》るんです。何も別にそれより外のことはないのですよ。」
 父は赫《かっ》と怒った。
「馬鹿言えッ! それならお前に読うで貰わいでも、己《お》りゃちゃんと知っとるわい。」
「でも一つは暑中見舞だし、一つは長々お世話になったという礼状ですもの。他に言い様がないじゃありませんか。」
「それだけなら、おりゃ眼が見えんでも知っとるわい。先刻《さきがた》郵便が来たとき、何処から来たのかと郵便屋に尋ねたのじゃ、そしたら、八重さ所からと、弟様とこから來たのやと言うさかい、そんなら別に用事はないのや、はゝん、八重さなら時候の挨拶やし、弟様なら礼手紙をいくいたのやなちゅうこと位はちゃんと分っとるんじゃ。お前にそんなことを言うて貰う位なら何も読うで呉れと頼まんわい。」
「だって……」
「もう宜い、宜いとも! 明日の朝浅七に見て貰うさかい。さア寝て呉れ、大《でか》い御苦労でござった。」と皮肉に言った。
 こう言われると恭三も困った。黙って寝るわけにも行かぬし、そうかと言って屈従する程淡白でもなかった。こゝで一寸気を変えて、「悪うございました。」と一言謝ってそして手紙を詳しく説明すれば、それで何の事もなく済んで了《しま》うのであることは恭三は百も承知して居たが、それを実行することが頗《すこぶ》る困難の様であった。妙な羽目に陥って蚊にさされながら暫くモジモジして居た。
「じゃどう言うたら宜いのですか?」と仕方なしに投げだす様に言った。
「己りゃ知らんない。お前の心に聞け!」
 今まで黙って居た母親は此時始めて口を出した。
「もう相手にならんと、蚊が食うさかい、早う蚊帳へ入らっしゃい。お父さんは酔うとるもんで、又いつもの愚痴が始まったのやわいの。」
「何じゃ! おれが酔うとる? 何処に己りゃ酔うて居るかいや。」
「そうじゃないかいね、お前様、そんなね酔うて愚痴を言うとるじゃないかね。」
「何時愚痴を言うたい? これが愚痴かい。人に手紙を読うでやるのに、あんな読方が何処の国にあろい?」
「あれで分ってるでないかいね、執拗《しつこ》い!」
「擲《たゝ》きつけるぞ! 貴様までが……」と父は恐しい権幕になった。枕でも投げようとしたのか、浅七は、
「父様《とうと》何するがいね、危い。……この母様《かあか》また黙って居らっされかア。」と仲裁する様に言った。
「まるで心狂《しんきょう》のようやが。」と母は稍々《やゝ》小さな声で言った。
 奥の間の方から猫がニャンと泣いてのそ/\やって来た。それで父親は益々《ます/\》癪《しゃく》に触ったと見えて、
「屁糞喰らえ!」と呶鳴《どな》りつけた。
 母と弟とはドッと笑い出した。恭三は黙って居った。猫は恭三の前に一寸立ち止って、もう一度ニャンと啼いてすと/\と庭に下りて行った。父親は独言の様に、
「己りゃこんな無学なもんじゃさかい、愚痴やも
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