父
金子ふみ子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)暖簾《のれん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|叢《むら》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いさかい[#「いさかい」に傍点]
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私の記憶は私の四歳頃のことまでさかのぼることができる。その頃私は、私の生みの親たちと一緒に横浜の寿町に住んでいた。
父が何をしていたのか、むろん私は知らなかった。あとできいたところによると、父はその頃、寿警察署の刑事かなんかを勤めていたようである。
私の思出からは、この頃のほんの少しの間だけが私の天国であったように思う。なぜなら、私は父に非常に可愛がられたことを覚えているから……。
私はいつも父につれられて風呂に行った。毎夕私は、父の肩車に乗せられて父の頭に抱きついて銭湯の暖簾《のれん》をくぐった。床屋に行くときも父が必ず、私をつれて行ってくれた。父は私の傍につきっきりで、生え際や眉の剃方についてなにかと世話をやいていたが、それでもなお気に入らぬと本職の手から剃刀を取って自分で剃ってくれたりなんかした。私の衣類の柄の見立てなども父がしたようであったし、肩揚げや腰揚げのことまでも父が自分で指図して母に針をとらせたようであった。私が病気した時、枕元につきっきりで看護してくれたのもやはり父だった。父は間《ま》がな隙がな私の脈をとったり、額に手をあてたりして、注意を怠らなかった。そうした時、私は物をいう必要がなかった。父は私の眼差《まなざ》しから私の願いを知って、それをみたしてくれたから。
私に物を食べさせる時も、父は決して迂闊には与えなかった。肉は食べやすいように小さくむしり魚は小骨一つ残さず取りさり、ご飯やお湯は必ず自分の舌で味って見て、熱すぎれば根気よくさましてからくれるのだった。つまり、他の家庭なら母親がしてくれることを、私はみな父によってされていたのである。
今から考えて見て、むろん私の家庭は裕福であったとは思われない。しかし人生に対する私の最初の印象は、決して不快なものではなかった。思うにその頃の私の家庭も、かなり貧しい、欠乏がちの生活をしていたのであろう。ただ、なんとかいう氏族の末流にあたる由緒ある家庭の長男に生れたと信じている私の父が、事実、その頃はまだかなり裕福に暮していた祖父のもとでわがままな若様風に育てられたところから、こうした貧窮の間にもなお、私をその昔のままの気位で育てたのに違いなかったのである。
私の楽しい思い出はしかしこれだけで幕を閉じる。私はやがて、父が若い女を家へつれ込んだ事に気づいた。そしてその女と母とがしょっちゅういさかい[#「いさかい」に傍点]をしたり罵《ののし》りあっているのを見た。しかも父はそのつど、女の肩をもって母を撲《なぐ》ったり蹴ったりするのを見なければならなかった。母は時たま家出した。そして、二、三日も帰って来ない事があった。その間私は父の友だちの家に預けられたのである。
幼い私にとっては、それはかなり悲しいことであった。ことに母がいなくなった時などは一そうそうであった。けれどその女はいつとはなく私の家から姿をかくした。少くとも私の記憶にはなくなってしまっている。が、その代り私は、自分の家に父の姿を見ることもまた少なくなった。
私は母につれられて父をある家へ――今から考えて見るとそれは女郎屋である――迎えに行ったことを覚えている。そして、父が寝巻き姿のまま起き上って来て、母を邪慳《じゃけん》に部屋の外へ突き出したことをも。でもたまには父は、夜更けた町を大きな声で歌をうたいながら帰って来ることもあった。そうしたとき母は従順に父の衣類を壁の釘にかけたりなんかしていたが、袂《たもと》の中からお菓子の空袋や蜜柑の皮などを取出して、恨めしそうに眺めながらいうのだった。
「まあ、こんなものたくさん。それだのに子どもに土産《みやげ》一つ買って来ないんだよ……」
父はむろん、警察をやめていたのだ。ではこの頃彼は何をしていたのだろう。今に私はそれを知らない。ただ私は、いろんな荒くれた男がたくさん集まって来て一緒に酒を呑んだり、「はな」を引いたりしていたことや、母がいつも、そうした生活についてぶつぶつ呟き、父といさかい[#「いさかい」に傍点]をしていたことを知っているばかりだ。
おそらくこういう生活がたたったのであろう。父はやがて病気になった。そこでなんでも母の実家からの援助で入院したとかで、母はその附添いになり、私は母の実家に引きとられた。そして半年余り、私は実家の曾祖母や小さい叔母たちに背負われて過した。父母に別れたのにも拘らず、その幼い私は、この間わりあい幸福であったように思う。
父が恢復すると、私はまた父の家に引きとられた。その時は私たちは海岸に住んでいた。それは父の病後の保養もあり、弱い私の健康のためでもあったのである。
そこは横浜の磯子の海岸だった。私たちは一日じゅう潮水に浸ったり潮風に吹かれたりして暮した。そしてその時を境として、私の肉体は生れ変ったように健康になったということである。それは私を幸福にしたのだろうか、それとも、私を来るべき苦しみの運命に縛りつけるための、自然の悪戯《いたずら》であったのだろうか、私にはわからない。
私達の健康が恢復すると、私たちはまた引越した。それは横浜の街はずれの、四方を田に囲まれた、十四五軒一|叢《むら》のうちの一軒だった。そしてその家へ引越した冬のある雪の降る朝、私に初めての弟が生まれた。
私が六つの年の秋頃だった――その間私は、私たちの家がむやみに引越したということだけしか覚えていない――私たちの家に、母の実家から母の妹が、だから私の叔母がやって来た。叔母は婦人病かなんか患っていたが、辺鄙な田舎では充分の治療が出来ないというので、私たちの家から病院に通うためだった。
叔母はその頃二十二、三であったろう。顔立ちの整った、ちょっとこぎれいな娘だった。気立てもやさしく、する事なす事しっかりしていて、几帳面で、てきぱきした性質であった。だから人受けもよく、親たちにも愛せられていたようでもある。だが、いつの間にかこの叔母と私の父との仲が変になったようである。
父はその頃、程近い海岸の倉庫に雇われて人夫の積荷|下荷《おろしに》をノートにとる仕事をしていたが、例によってなにかと口実をつけては仕事を休んでいた。そんな風だから私の家の暮し向きのゆたかである筈はなく、そのためであろう、母と叔母とは内職に麻糸つなぎをしていた。毎日毎日、母はそうして繋いだ三つか四つの麻糸の塊《たま》を風呂敷に包んで、わずかな工賃を貰いに弟を背負っては出かけるのだった。
ところが不思議なことに、母が出かけるとすぐ、父は必ず、自分の寝そべっている玄関脇の三畳の間へ叔母を呼び込むのであった。別にたいして話をしているようでもないのに、叔母はなかなかその部屋から出て来ないのが常だった。私はこまちゃくれた好奇心にそそられないわけには行かなかった。私はついにあるとき、そっと爪立ちをして、襖の引手の破目から中を覗いて見た……。
だが、私は別にそれ程驚かなかった。なぜなら、こうした光景を見たのは今が初めてではなかったからである。私のもっと小さい時分から、父や母はだらしない場面をいくたびか私に見せた。二人はずいぶん不注意だったのだ。そのためかどうか、私はかなり早熟で、四つ位の年から性への興味を喚び覚まされていたように思う。
母は火の消えたような女で、ひどく叱りもしなければひどく可愛がりもしない。が、父は叱る時にはかなりひどい叱り方をしたが、可愛がる時にはまた調子外れの可愛がり方をした。この二つの性格のいずれが子どもの心をより多く捉えたであろうか。小さい時には私はより多く父になついていた。父のために母がひどい目にあっているのを見なかったならばおそらく私はいつまでも父に親しんでいたろう。けれどいつの間にか私は父よりも母に親しんでいた。で、この頃は私は、どこへ行くにも母の袂にぶらさがってついて歩いていたが、叔母が来てからというもの、父は、私が母について出かけるのを妨げた。いろいろとすかして私を家にひきとめた。今から思うとそれは叔母に対する母の不安を取除かせて自分たちの行為をごまかすためであったに相違ない。なぜなら母が出かけるとすぐ、父は私に小遣銭を握らせて外に遊びに出したからである。いや、むしろ追い出したからである。私は別に小遣銭をねだったのではなかった。だのに、父はいつもよりはたくさんの小遣をくれて永く遊んで来いというのだった。しかも母が帰って来ると父は、母にこういって私のことを訴えるのだった。
「この子はひどい子だよ。わしの甘い事を知って、あんたが出かけるとすぐ、お小遣をせびって飛び出すんだからね」
そのうちに年も暮になった。
大晦日の晩のことを私は覚えている。母は弟をおぶって街に出かけた。父と叔母と私とは茶の間で炬燵にあたっていた。
なんとはなしにしめっぽい[#「しめっぽい」に傍点]じめじめした夜だった。いつにも似ず、父も叔母も暗い顔をしていた。そのうち父はうつぶせ[#「うつぶせ」に傍点]にしていた顔をあげてしんみりとした調子でいった。
「どうしてわしの家はこうも運がわるいだろう。わしにはまだ運が向いて来ないんだね、来年はどうかなってくれればいいが……」
人には運というものがある。それが向いて来ないうちはどうにもならないものだ。これが迷信家の私の父の哲学であった。父がしょっちゅう[#「しょっちゅう」に傍点]そんなことをいっているのを私は小さい時から知っている。
二人は何かしきりに話し合っていたが、そのうち叔母は立ち上って押入れから櫛箱を出して来た。
「これにしましょうか」叔母はそのうちの一つの櫛を取って見まわしながらいった。「でも少し好すぎるわねえ。惜しい気がするわ」
父は答えた。
「どうせ捨てるんだ。どんなものを捨ててはならんということはない。櫛でさえあれば……」
叔母はそこで歯の折れた櫛を髪に挿して、頭から振り落す稽古をした。
「そんなにしっかり挿す必要はない。そっと前髪の上に載っけておけばいいんだ」と父はいった。
「うちの玄関口から出て前の空地を少し荒っぽく走ればすぐ落ちるよ」
いわるるままに叔母はその折れた櫛を挿して出かけて行った。そしてものの五分とたたないうちに櫛を振落して叔母が帰って来た。
「それでよし、悪運が遁《に》げてしまった。来年からは運が向いて来る」
父がこういって喜んでいるところへ、母が戻って来た。
母が泣いている弟を背からおろして乳を呑ませている間に、叔母は買物の風呂敷包みを解いた。なんでも、切餅が二、三十切れと、魚の切身が七、八つ、小さい紙袋が三つ四つ、それから、赤い紙を貼った三銭か五銭かの羽子板が一枚、それだけがその中から出て来た。
これが私たちの楽しいお正月を迎えるための準備だったのである。
翌年のお正月に母の実家から叔父が遊びに来た。叔父が帰ると、すぐにまた祖母がやって来て叔母に一緒に帰れといった。けれど、叔母は帰らずに祖母だけが帰って行った。
なんでもそれは、あとで人にきくところによると、正月に遊びに来た叔父は父と叔母とのことを知って、家に帰って話すと、祖母が心配して、お嫁にやるのだからとの理由でつれに来たのだそうである。
だが、父はむろんそれを承知する筈がなく、かえって、叔母の病気がまだよくなっていないのに、今お嫁になどやると生命にもかかわるとおどかしたそうである。
「なに、それはいいんだよ。先方は金持ちなので、貰ったらすぐ医者にかけるという約束になっているんだから」
祖母はこう答えたけれど、父は今度は、いつもの運命論をかつぎ出して、自分が不運続きのため叔母の着物をみな質に入れた、だからこのまま還すわけにはゆかぬとか、叔母は身体が弱いから百姓仕事はとても出来ない、自分もいつまでもこうしてはいないつもりだから、そのうち
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