とをいっているのを私は小さい時から知っている。
 二人は何かしきりに話し合っていたが、そのうち叔母は立ち上って押入れから櫛箱を出して来た。
「これにしましょうか」叔母はそのうちの一つの櫛を取って見まわしながらいった。「でも少し好すぎるわねえ。惜しい気がするわ」
 父は答えた。
「どうせ捨てるんだ。どんなものを捨ててはならんということはない。櫛でさえあれば……」
 叔母はそこで歯の折れた櫛を髪に挿して、頭から振り落す稽古をした。
「そんなにしっかり挿す必要はない。そっと前髪の上に載っけておけばいいんだ」と父はいった。
「うちの玄関口から出て前の空地を少し荒っぽく走ればすぐ落ちるよ」
 いわるるままに叔母はその折れた櫛を挿して出かけて行った。そしてものの五分とたたないうちに櫛を振落して叔母が帰って来た。
「それでよし、悪運が遁《に》げてしまった。来年からは運が向いて来る」
 父がこういって喜んでいるところへ、母が戻って来た。
 母が泣いている弟を背からおろして乳を呑ませている間に、叔母は買物の風呂敷包みを解いた。なんでも、切餅が二、三十切れと、魚の切身が七、八つ、小さい紙袋が三つ四つ、それから、赤い紙を貼った三銭か五銭かの羽子板が一枚、それだけがその中から出て来た。
 これが私たちの楽しいお正月を迎えるための準備だったのである。

 翌年のお正月に母の実家から叔父が遊びに来た。叔父が帰ると、すぐにまた祖母がやって来て叔母に一緒に帰れといった。けれど、叔母は帰らずに祖母だけが帰って行った。
 なんでもそれは、あとで人にきくところによると、正月に遊びに来た叔父は父と叔母とのことを知って、家に帰って話すと、祖母が心配して、お嫁にやるのだからとの理由でつれに来たのだそうである。
 だが、父はむろんそれを承知する筈がなく、かえって、叔母の病気がまだよくなっていないのに、今お嫁になどやると生命にもかかわるとおどかしたそうである。
「なに、それはいいんだよ。先方は金持ちなので、貰ったらすぐ医者にかけるという約束になっているんだから」
 祖母はこう答えたけれど、父は今度は、いつもの運命論をかつぎ出して、自分が不運続きのため叔母の着物をみな質に入れた、だからこのまま還すわけにはゆかぬとか、叔母は身体が弱いから百姓仕事はとても出来ない、自分もいつまでもこうしてはいないつもりだから、そのうちきっといい縁先を都会に見つけて、自分が親元となって縁づけるなど、いろいろの理窟をつけて還さなかったのだそうである。
 哀れな祖母よ、祖母はむろん父のこの言葉を信じなかったに相違ない。けれど、祖母は無智な田舎の百姓女である。この狡猾な都会ものの嘘八百に打勝つことがどうしても出来なかったのである。

 祖母は空しく帰って行った。父は厄介神を追っ払って安堵の胸をなでおろした事であろう。ひとり胸の苦しさを増したのは母であったに違いない。実際それからのちの私の家は始終ごたついていた。では叔母は?
 叔母とても決して晴やかな気持ちでいたわけではなかろう。叔母がときどき、二月も三月も家にいなくなったのを私は覚えている。そして、それはあとからきいたことではあるが、叔母が父を遁れてひとりこっそりと他人の家に奉公に行っていたのであった。が、そのたびに父は根気よく尋ねまわって、しまいにはとうとう探しあてて来るのであった。
 二度目に叔母がつれ戻されたとき、私たちはまた引越した。それは横浜の久保山で、五、六町奥に寺や火葬場を控えた坂の中程にあった。
 父は相変らず何もしていないようであったが、そのうちどうして金をつくって来たのかその坂を降りたとっつき[#「とっつき」に傍点]の住吉町の通りに今一軒商店向きの家を借りた。父はその家で氷屋を始めたのだった。
 氷屋の仕事は叔母の役目だった。母と子供たちは山の家に残り、父は昼間だけそこに行って帳面をつけたり商売の監督をするのだといっていた。が、それはただ初めの間だけのことで、ほどなくめったに山の家には帰って来なくなった。つまりていよく私たち母子を、父と叔母との二人の生活から追ん出してしまったのである。
 私はその時もう七つになっていた。そして七つも一月生れなのでちょうど学齢に達していた。けれど無籍者の私は学校に行くことが出来なかった。
 無籍者! この事については私はまだ何もいわなかった。だが、ここで私は一通りそれを説明しておかなければならない。
 なぜ私は無籍者であったのか。表面的の理由は母の籍がまだ父の戸籍面に入ってなかったからである。が、なぜ母の籍がそのままになっていたのか。それについてずっとのちに私が叔母からきいた事が一番本当の理由であったように思う。叔母の話したところによると、父は初めから母と生涯つれ添う気はなく、いい相手が見つかり次第母
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