を捨てるつもりで、そのためわざと籍を入れなかったのだとの事である。ことによるとこれは、父が叔母の歓心を得るためのでたらめの告白であったかもしれない。ことによるとまた、父のいわゆる光輝ある佐伯家の妻として甲州の山奥の百姓娘なんか戸籍に入れてはならぬと考えたのかもしれない。とにかく、そうした関係から、私は七つになる今までも無籍者なのであった。
 母は父とつれ添うて八年もすぎた今日まで、入籍させられないでも黙っていた。けれど黙っていられないのは私だった。なぜだったか、それは私が学校にあがれなかったことからであった。
 私は小さい時から学問が好きであった。で、学校に行きたいとしきりにせがんだ。あまりに責められるので母は差し当たり私を母の私生児として届けようとした。が、見栄坊の父はそれを許さなかった。
「ばかな、私生児なんかの届が出せるものかい。私生児なんかじゃ一生頭が上らん」
 父はこういった。それでいて父は、私を自分の籍に入れて学校に通わせようと努めるでもなかった。学校に通わせないのはまだいい。では自分で仮名の一字でも教えてくれたか。父はそれもしない。そしてただ、終日酒を飲んでは花をひいて遊び暮したのだった。
 私は学齢に達した。けれど学校に行けない。
 のちに私はこういう意味のことを読んだ。そして、ああ、その時私はどんな感じをしたことであろう。曰く、
 明治の聖代になって、西洋諸国との交通が開かれた。眠れる国日本は急に目覚めて巨人のごとく歩み出した。一歩は優に半世紀を飛び越えた。
 明治の初年、教育令が発布されてから、いかなる草深い田舎にも小学校は建てられ、人の子はすべて、精神的に又肉体的に教育に堪え得ないような欠陥のない限り、男女を問わず満七歳の四月から、国家が強制的に義務教育を受けさせた。そして人民はこぞって文明の恩恵に浴した、と。
 だが無籍者の私はただその恩恵を文字の上で見せられただけだ。私は草深い田舎に生れなかった。帝都に近い横浜に住んでいた。私は人の子で、精神的にも肉体的にも別に欠陥はなかった。だのに私は学校に行くことが出来ない。
 小学校は出来た。中学校も女学校も専門学校も大学も学習院も出来た。ブルジョワのお嬢さんや坊ちゃんが洋服を着、靴を履いてその上自動車に乗ってさえその門を潜った。だがそれが何だ。それが私を少しでも幸福にしたか。

 私の家から半町ばかり上に私の遊び友だちが二人いた。二人とも私とおないどしの女の子で、二人は学校へあがった。海老茶の袴《はかま》をはいて、大きな赤いリボンを頭の横っちょに結びつけて、そうして小さい手をしっかりと握りあって、振りながら、歌いながら、毎朝前の坂道を降りて行った。それを私は、家の前の桜の木の根元にしゃがんで、どんなにうらやましい、そしてどんなに悲しい気持ちで眺めた事か。
 ああ、地上に学校というものさえなかったら、私はあんなにも泣かなくってすんだだろう。だが、そうすると、あの子供たちの上にああした悦びは見られなかったろう。
 むろん、その頃の私はまだ、あるゆる人の悦びは、他人の悲しみによってのみ支えられているということを知らなかったのだった。

 私は二人の友だちと一緒に学校に行きたかった。けれど行く事が出来なかった。私は本は読んでみたかった。字を書いてみたかった。けれど、父も母も一字だって私に教えてはくれなかった。父には誠意がなく、母には眼に一丁字もなかった。母が買物をして持って帰った包紙の新聞などをひろげて、私は、何を書いてあるのか知らないのに、ただ、自分の思うことをそれにあてはめて読んだものだった。

 その年の夏もおそらく半頃《なかばごろ》だったろう。父はある日、偶然、叔母の店から程遠くない同じ住吉町に一つの私立学校を見つけて来た。それは入籍する面倒のない、無籍のまま通学の出来る学校だったのだ。私はそこに通うことになった。
 学校といえば体裁はいいが、実は貧民窟の棟割長屋の六畳間だった。煤けた薄暗い部屋には、破れて腸《はらわた》を出した薄汚い畳が敷かれていた。その上にサッポロビールの空函が五つ六つ横倒しに並べられていた。それが子供たちの机だった。私のペンの揺籃《ようらん》だった。
 おっ師匠さん――子供たちはそう呼ばされていた――は女で、四十五、六でもあったろうか、総前髪の小さな丸髷《まるまげ》を結うて、垢じみた浴衣に縞の前掛けをあてていた。
 この結構な学校へ私は、風呂敷包みを背中にななめに縛りつけてもらって、山の上の家から叔母の店の前の往来を歩いて通った。たぶん私と同じような境遇におかれた子供たちであろう。十人余りのものが狭い路地のどぶ板を踏んで通って来るのであった。
 父は私をその私立学校に、貧民窟の裏長屋に通わせるようになってから、私に噛んで含めるようにいいき
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
金子 ふみ子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング