よくもお前は人前で俺に恥をかかせたな。縁起でもない、おかげで俺はすっかり負けてしまった。覚えてろ!」
 父はもう片足の下駄を手に取っていた。そしてそれで母をなぐりつけた。その上、母の胸倉をつかんで、崖下につき落すと母を脅かした。夜だから見えないが、昼間はよくわかる、あの、灌木や荊《いばら》がからみあって繁っている高い崖下へである。
 弟は驚いて母の背中で泣きわめいた。私はおろおろしながら二人の周囲を廻ったり、父の袖を引いて止めたりしたが、そのうちふと[#「ふと」に傍点]、そこから半町ばかり下の路傍の木戸の長屋に小山という父の友人のいることを憶い出した。おいおい泣きながら私はその家へ駈けこんだ。
「やっぱりそうだったのか……」とその家の主人は、食べかけていた夕飯の箸をほうり出して飛んで来てくれた。

 私立学校へ通い始めて間もなく盆が来た。おっ師匠さんは子どもに、白砂糖を二斤中元に持って来いといいつけた。おそらくこれがおっ師匠さんの受ける唯一の報酬だったのだろう。けれど私にはそれが出来なかった。生活の不如意のためでもあったろうが、家のごたごたは私の学校のことなどにかまってくれる余裕をも与えなかったためでもあろう。とにかくそんなわけで私は、片仮名の二、三十も覚えたか覚えないうちに、もうその学校からさえ遠ざからなければならなかった。叔母の店は夏の終りまで持ちこたえられなかった。二人はまた山の家へ引きあげて来た。家は一層ごたつき始めて、父と母とは三日にあげず喧嘩した。
 二人が争うとき私はいつも母に同情した。父に反感を持ちさえもした。そのために私は母と一緒になぐられもした。ある時などは、雨のどしゃぶる真夜中を、私は母と二人で、家の外に締め出されたりなどした。
 父と叔母とはあいかわらずむつまじかった。けれど、実家からはいつも叔母の帰宅を促して来た。そしてとうとう、叔母も帰るといい、父も帰すといい出した。母も私も明るい心になったのはいうまでもなかった。
 父はしかし、叔母を帰すについては、叔母をまさか裸では帰されないといった。そして、店をたたんだ金で、その頃十七、八円もする縮緬《ちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》や帯や洋傘《こうもり》などを買ってやった。ちょうど私の小さい時に私の世話を一さい自分でしたように、父は叔母のそれらの買い物を一切自分でしてやった。以前、子に向けた心づ
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