り上に私の遊び友だちが二人いた。二人とも私とおないどしの女の子で、二人は学校へあがった。海老茶の袴《はかま》をはいて、大きな赤いリボンを頭の横っちょに結びつけて、そうして小さい手をしっかりと握りあって、振りながら、歌いながら、毎朝前の坂道を降りて行った。それを私は、家の前の桜の木の根元にしゃがんで、どんなにうらやましい、そしてどんなに悲しい気持ちで眺めた事か。
 ああ、地上に学校というものさえなかったら、私はあんなにも泣かなくってすんだだろう。だが、そうすると、あの子供たちの上にああした悦びは見られなかったろう。
 むろん、その頃の私はまだ、あるゆる人の悦びは、他人の悲しみによってのみ支えられているということを知らなかったのだった。

 私は二人の友だちと一緒に学校に行きたかった。けれど行く事が出来なかった。私は本は読んでみたかった。字を書いてみたかった。けれど、父も母も一字だって私に教えてはくれなかった。父には誠意がなく、母には眼に一丁字もなかった。母が買物をして持って帰った包紙の新聞などをひろげて、私は、何を書いてあるのか知らないのに、ただ、自分の思うことをそれにあてはめて読んだものだった。

 その年の夏もおそらく半頃《なかばごろ》だったろう。父はある日、偶然、叔母の店から程遠くない同じ住吉町に一つの私立学校を見つけて来た。それは入籍する面倒のない、無籍のまま通学の出来る学校だったのだ。私はそこに通うことになった。
 学校といえば体裁はいいが、実は貧民窟の棟割長屋の六畳間だった。煤けた薄暗い部屋には、破れて腸《はらわた》を出した薄汚い畳が敷かれていた。その上にサッポロビールの空函が五つ六つ横倒しに並べられていた。それが子供たちの机だった。私のペンの揺籃《ようらん》だった。
 おっ師匠さん――子供たちはそう呼ばされていた――は女で、四十五、六でもあったろうか、総前髪の小さな丸髷《まるまげ》を結うて、垢じみた浴衣に縞の前掛けをあてていた。
 この結構な学校へ私は、風呂敷包みを背中にななめに縛りつけてもらって、山の上の家から叔母の店の前の往来を歩いて通った。たぶん私と同じような境遇におかれた子供たちであろう。十人余りのものが狭い路地のどぶ板を踏んで通って来るのであった。
 父は私をその私立学校に、貧民窟の裏長屋に通わせるようになってから、私に噛んで含めるようにいいき
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