た頃、僅かな休暇だけではとても辛抱ができず、計画的に会社を休んで、山へ出かけたことがあります。そのとき彼は欠勤届を腹痛として、休むと同時に出しました。もちろん会社内の人は、彼の不正な行為に少しも気がつきませんでした。やがて山から帰ってきたAはそしらぬ顔をして会社へ出勤し、コツコツと働いていました。そのとき課長がいつもの時間に見廻ってきて、Aに「もう腹具合はよくなりましたか」と心から心配そうに尋ねたものです。この親切な言葉にはさすがのAも「はぁ」と言ったまま、良心の呵責を受けて顔を上げることもできませんでした。そして彼は二度とあんな悪いことはすまいと決心をしたのです。
やがてその夜も明けはなれましたが、相変らず室堂の尾根は唸っております。けれども最早|躊躇《ちゅうちょ》するAではありませんでした。Aはこう思いました。「この茫々とした立山の雪原であるいは自分の一生も行き暮れてしまうかも知れない。けれど正しいと思う方向へ向って歩いておれば、倒れたとて何を思い残すことがあろう」とやがてAは室堂の出口の梯子を登って行きました。とはいえ、一歩戸外へ出ると物凄い吹雪はまともに吹き揚げてくるし、油で
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