べく、あれだけ自重して登っても、やはり、ビギナーであるが故のみをもってして、「無謀だ」としりぞけられねばならないのだろうか?
[#地から1字上げ](一九二九・一一)
[#改ページ]

山へ登るAのくるしみ

 ある年の二月に、ひどく吹雪の日のつづいたことがあります。ちょうどそのとき、Aは僅かしか与えられない休暇を利用して冬山へ登るため、立山の室堂へ泊っていました。Aは毎晩「今日は随分ひどく荒れたから、明日はきっといいお天気になるだろう」と考えながら、安心して眠るのでした。けれどその予想は毎朝、哀れにもくつがえされるのでした。やがて休暇も残り少なくなった三日目頃からAには会社のことが気にかかりだしました。その晩、Aは彼の母と、そして会社の課長の夢を見ました。
 Aの母は、彼の山行を非常に心配する人でした。それは彼が山へ登るために時折会社を休むことがあったからなので、決して世の多くの母親のように「もしもあの子が山で遭難するようなことがあったら」というのではありませんでした。またAの上役たる課長はほんとうに人格者で、殊に情に発達した人でした。かつて、Aが山登りに興味をおぼえ、非常に熱の高かった頃、僅かな休暇だけではとても辛抱ができず、計画的に会社を休んで、山へ出かけたことがあります。そのとき彼は欠勤届を腹痛として、休むと同時に出しました。もちろん会社内の人は、彼の不正な行為に少しも気がつきませんでした。やがて山から帰ってきたAはそしらぬ顔をして会社へ出勤し、コツコツと働いていました。そのとき課長がいつもの時間に見廻ってきて、Aに「もう腹具合はよくなりましたか」と心から心配そうに尋ねたものです。この親切な言葉にはさすがのAも「はぁ」と言ったまま、良心の呵責を受けて顔を上げることもできませんでした。そして彼は二度とあんな悪いことはすまいと決心をしたのです。
 やがてその夜も明けはなれましたが、相変らず室堂の尾根は唸っております。けれども最早|躊躇《ちゅうちょ》するAではありませんでした。Aはこう思いました。「この茫々とした立山の雪原であるいは自分の一生も行き暮れてしまうかも知れない。けれど正しいと思う方向へ向って歩いておれば、倒れたとて何を思い残すことがあろう」とやがてAは室堂の出口の梯子を登って行きました。とはいえ、一歩戸外へ出ると物凄い吹雪はまともに吹き揚げてくるし、油で真黒だったスキー靴も、寒さのため瞬く間に黄色く変り、足の指がズキズキと痛みだしたときはさすがに彼もたじたじとしました。けれど次の瞬間彼は吹きあげてくる西風へ向って猛然と突進して行きました。睫毛は凍り、顔は強ばり、手の指は感じがなくなり、呼吸もくるしい。けれどAはひるみませんでした。谷に迷い、尾根を登り、長いあいだ一生懸命に闘った。そしてやっと姥ヶ石の附近まで下ってきました。その頃から天候は恢復しだして雪は止むし、風もだんだん弱くなってきました。やがて追分の附近へきた頃は霧も晴れて、雪雲が頭の上を盛んに飛んでいるだけでした。そしてAは無事に弥陀ヶ原を横断し、弘法小屋へ着きました。ここで彼はコッヘルを使用して遅い昼食をし、大急ぎでまた下って行きました。桑谷ではちょっと道を間違えてうろうろし、また材木坂の急斜面に時間をくわれましたが、難なく藤橋へ下ることができました。やっと安心したAは藤橋ホテルで久し振りに満腹して、動くのも嫌なくらいでしたが、明日は会社へ出なければなりませんので、また勇をこして暗い夜道を急ぎました。
 藤橋から少し下ったところは雪崩の跡で道が殊に悪くなっていました。芦峅でいろいろと小屋代の払いをすませて千垣についたときの彼は実に嬉しそうでした。千垣で電車を待つあいだ、Aが汽車の時間をしらべてみると南富山から富山駅へ行く富山鉄道がこんどの電車にうまく連絡しているので、いつも富山市電の遅いのに参っている彼は、これ幸いと直通切符を買って電車へ乗込みました。電車はなんらの事故もなく南富山へ着きました。早速Aは乗換えのため向い側の富山鉄道のプラットホームへ行きました。そこでAはしばらく待っていましたが、汽車がこないので変だなと思って改札口の方へ行って聞いてみると、「なんのことだ」汽車はつい先出たところだと言う。あまりのことに呆然としてしまった。なぜならこの次の富山発の汽車へ乗れなかったら、明日は会社に出ることができないからです。しかし「まだ時間はある。どうしてもその汽車に乗らなければならない」と思ったAは大あわてにあわてて富山市電に乗込みました。けれどもこの電車はそんなことはなんにも知らないので相変らず悠々としています。
 Aは、このときほど富山市電の遅いということを、つくづく感じたことはありませんでした。彼は車掌に駅までもう何十分かかるかと何度も訊ねたほどです。
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