時着。
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 一ノ沢を登ると最後に雪渓が四つに別れます。一番南の谷が肩から出ているのですが知らなかったため、三番目の一番深い谷へ入って、横通岳へ登ってしまいました。一ノ俣を下ると滝がたくさんある滝沢を通ります。ここは五月頃最も悪いところです。一ノ俣小屋には毛布や蒲団がたくさん置いてありました。槍沢は赤沢山の下からずっと雪渓になっています。小屋は大槍も殺生も肩のも皆出ていました。横尾谷は屏風岩の下から雪渓で、北穂には本谷と唐沢を分けている尾根の上の方へ取付いて登りました。峰伝いは全く真夏と同様で楽に歩けました。北穂―唐沢―奥穂の距離は地図よりずっと遠いように思います。奥穂は北アルプス中最も大きい山で海抜三一七〇メートル以上あると思います。前穂は下から頂上まで雪が少しも切れないでつづいていました。
[#地から1字上げ](一九二八・七)
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山と私

    1

 私はしばしば山に登る。それは山がいつも私の前に立っており、私はただわけもなく、それに登りたくなるものだから。あながち「岩の呼ぶ声」に惹きつけられるというものでもない。私にはむしろ岩は多くの場合恐怖の対象物でしかあり得ない。「雪と氷を追って」私の若い血汐が躍るのでは更にない。「白い芸術」は私には余りに遠い世界に距っており、|氷の労作《アイス・ワーク》は私には肉体的にも精神的にも余りにも大きな負担であり、痛苦と屈服をのみ与えこそすれ、なんら戦闘意識といったものすら起し得ないからである。私には、私の山、一〇〇〇メートル級の山々の何物をも眼界から奪い去るひどいブッシュの中であってもいいのだし、また単に山々の懐ろ深く入りながら、かえって峰々の姿も見ないで谷から谷へと歩くばかりでもいいのである。
 私はたびたび山に登る。それは山がいつも私の前に立っており、私はただわけもなくそれに登りたくなるものだから。そしてそのたびに私は私の職務を休まねばならない。しかし私は誰かのように、「月給の奴隷ではないんだから」好きなときには休むというほど大それた反逆児? ではない。私の今の現実の生活は冷くあっても決して夢でもなく、道楽でもない。私が余裕のある人々の夢のままを追ったとき、そこには破滅の外の何物が待っていよう。
 私はしばしば山に登る、仕事を休んでまで。しかしその理由はいたって簡単だ。誰しもがなんらかの理由で休むだろう一年の五、六日を、私はただ山登りに利用するというまでなのである。日曜と休日をいかに組み合わすべきかは、従って、私の山行の企画における最も重要な鍵点である。
 山行の経済はまた私にとって相当の問題を提供する。しかしこれは他人の考えるほどには私にとって問題ではない。私は要するにごく簡単なのである。山よりほかに金の費い途を知らないのだから、それに、私の山行ではガイドやポーターといったものにいささかの支払いもなくてすむし、食糧にしろ他の道具にしろ普通の人から見ればごく簡単なものでよい。
 私はしばしば山に登った。が、多くの人々とともに計画し、登山したことははなはだ稀だ。私には独りで登山しても充分の満足が得られるのだし、殊更に他の人を交えてお互いに気兼ねし合う必要はないのだから。
 私はしばしば山に登ったし、また今後も登って行きたい。そしてとにかく私は信じている、山は、山を本当に愛するものすべてに幸を与えてくれるものだと。

    2

 今、AとBの二人が、ある氷と岩との殿堂を攀じていると想像し給え。Aは百戦功を経たエクスパートであり、Bは初めて氷にアックスを揮うビギナーである。
 Aのステップは簡単で浅く、軽いリズムでドンドンと登って行くに反して、Bの不安は彼のステップを歩一歩深く切り下げさせ、慎重に慎重を重ねた重いリズムで徐々に登って行く。
 岩場においてもAのリズムはあくまで軽やかに、僅かのホールドに安んじて彼の体躯を進ませ、Bはあちこちとルートを考え求めて、安心のできるところに至って初めて自重しながら登高する。
 Aはエクスパートであり、常に落着いた心境に安住して軽い気持で登って行き、Bは同じく澄み切った心境にあるといえ、ともすればその一隅に潜むビギナーなるための不安に脅かされて、重い気持の圧迫から自重の上になおも自重を重ねさされる。このとき、――Aがもしエクスパートのパーティであり、Bがビギナーの単独行ででもあった際は一層――事実においては世の登山家たちから「独りで? 乱暴な!」との非難を避けずにはいられないものなのである。
 しかし、このように「安全性」の原点よりしてある人の山登りを観察し、それに対してなんらかの批判を下し得るものとして、考えて見給え、Aはこの際果してBよりも常に安全であり得るか、どうか? そして、Bはバランスの不足を補う
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