引っかかりなかなか上ってこなかったので、北穂の頂きに立ったときはすでに夕暮れがせまっていた。北穂の下りは先年二月に通ったことがあるので安心していたが、間もなく暗くなったので思うように行程がはかどらなかった。涸沢岳との鞍部に近くなった頃、一間ほどの壁を下り、すぐ飛騨側を巻くところがある。ここで岩角を掴んでトラバースしているとき、腰のバンドに取付けていた懐中電灯が岩にふれて取手の付いた蓋の方を残してカランカランと音を立てながら谷底へ落ちてしまった。仕方がないのでここまで引返してきたのである。
幸い食料も燃料も、充分持っているし、防寒具も相当あるので、ここで露営することにした。で、石を掘出しワカンとザイルを敷物にして腰掛を作る。いつの間にか雪が降り出してきた。手早くコッヘルを出して雪と甘納豆をほうり込み火をつける。雪がそろそろ融け出すと氷小豆という奴になっているのでもうたべられる。殊に身体の疲れている折などは冷い物の方がのどを通りやすい。そしてそれがあつくなった頃には殆んどすくい上げられているし、アルコールも燃えつくしている、腹もできたのでまず一眠りと、合羽をぐるぐる身体に巻き付け風の入らないようにして横になった。
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かつて一月のある日、奥穂高へ登ろうとして吹雪のため穂高の小屋より追い返されたことがある。そのとき横尾の谷へ下った頃には薄暗くなってきたので、ランタンに火をつけようとしたが、ローソクに雪がついたためマッチの火ではジーッといっているだけで火がつかず、あきらめて真暗な中を足探りで下って行くうち、川の中へ辷り込んで半身びしょ濡れになってしまった。で、このまま進むことはスキーを折ったりするおそれがあると思ったのでその岩陰で露営したが、ズボンがびしょ濡れになっているので腰を下すととても冷たく辛抱ができず、一晩中立っていたが、恐ろしく辛い露営の夜であった。それにその頃は眠ったら駄目だと思っていたので、大声で歌を唄いつづけたため朝方には全くふらふらになってしまった。また山陰の氷ノ山―扇ノ山を縦走中猛吹雪に遭い、歩きつづけること五十余時間で空腹と疲労のためとうとう倒れてしまったことがある。しかしそのときは吹雪もそれ以上はつづかず、倒れてから八時間ほどして気がついたのである。これらの経験から、初めの元気のあるあいだは身体の消耗を防ぐため歌を唄ったり歩き廻ったりしないで、できるだけ眠る方がよいと思った。もちろん眠る前には充分カロリーをとっておく必要がある。
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一眠りして目のさめたときは吹雪はますます勢いを増してきて、着ている合羽がバタバタと音を立てていた。その後は涸沢岳の壁に衝《あた》る物凄い音を聞きながらうつらうつらとしている。何度目を開けてみても夜が明けない。あまり長いので、あるいは夜が明けているのだが雪目か何かにかかって目が見えなくなっているのではなかろうかなどと考えたりする。また古い記憶を辿ってみると、涸沢岳への登りはだいぶ悪場があったような気がする。こんなひどい吹雪の日にそこを通過するのは困難ではなかろうか、むしろ涸沢岳直下の雪の斜面を巻いて穂高の小屋へ行くコースの方が安全ではなかろうか、などと考えたりする。しかしまた、雪崩の最もよく出るのはこんな吹雪の日のようだし、ことに涸沢岳の直下あたりは急傾斜の岩場がたくさんあるので始終雪崩ているようにも思われる。では吹雪のやむまでここで待とうか、いや一日や二日でこの吹雪が止むとはきまっていない。三日も四日もこれがつづいたとすればこのままの状態でいられるかどうかうたがわしい。足でも凍傷にかかろうものならほんとに動けなくなるかも知れない。そうだ全く忘れていた――「なんのために山にきたのか」ということを。自分は「山と闘うためにきた」のではないか。なぜ岩を恐れ、氷を恐れ吹雪を恐れてこれらの姑息《こそく》な手段を考えるのか。吹雪の日の涸沢岳の尾根こそ久しく求めて止まなかったところではないか。さあ立ち上がろう、立ち上がろうと勇を鼓して吹雪をついた。
B 前穂高北尾根(昭和九・四・三)
前穂高北尾根第三峰のチムニーの中に掘った雪のトンネルで岳友吉田君と二人、場所柄実に寒い露営地で一夜を過した思い出である。
この日は早朝朝焼けがしていて、間もなく天候が崩れることはわかっていたが、尾根へ出れば吹雪いたとてひとすじ路のうえ、雪崩の心配もないのだからと思い切って出発した。この年(昭和九年の春)は恐ろしく大雪が降った年で、四月の三日にもなっているのに真冬と同様の天候がつづき、涸沢谷の雪は昨日一日の快晴にもなんらの変化をみせないほどで、涸沢谷の下りは実に愉快であった。その代り、スキーをぬげばワカンをはいてなお腰までももぐり、五、六の鞍部への急な登りにはピッケ
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