ら見舞いに帰ろうと思います。休暇を少しもらえませんか」といってお願いに出た。ところが「君の父は山の中で病気をしているのではないかね」と上の人が皮肉をいうのです。実際そういわれても仕方がない。どうもない親を病気だといってまで山へ行くほどの不孝者ではないにしても、山へ行くときにはあっさり休暇を使いながら、父の病気見舞いには休暇をもらうことを惜しんでいた私なんだから。しかしなんといわれても見舞いに帰らねばならない。一人しかいない親なんだし、末子でわがままな私のことを一番心配している父なんだもの。
わが家へ帰ってみると、一時大変悪かった父もだいぶ恢復していたので大いに安心した。父は生来無口で思っていることの半分もいえぬ性なのだが、私の顔を見るとすぐ、登山は危険だから止めてほしい。そして早く身をかためてくれといった。母がいたならおまえを今まで独りで置きはしなかったであろうに。自分はどれほどそれを心配していることか、自分の病気はだんだん重くなって行くばかりで、もう全快の見込みがない。そう長くは生きておられない自分だ、なんとか安心させてくれないものか、そればかりが心残りなのだがといわれる。私はそれになんと答えたらよかったでしょう。けれど私には嘘をいうだけの勇気がありませんでした。私は「お父さん心配して下さるな。私には命懸けで愛している恋人があるのです。あなたはそれをよく御存知でしょう」と言ってしまった。ところが父は「ああおまえは何を言っているのか。父が死ぬという間際になってこれほどまでに頼むのにまだ迷いの夢が覚めないとは、おお可哀想に、お前はほんとに恐ろしい者につかれてしまったなあ」と心から嘆くのでした。ああほんとに恐ろしい力だ。忘れようとすればするほど、心の奥へくい込んでくる。どんなに我慢しようとしても駄目だ。ああどうしたらよいのか。ねえお父さんほんの二、三日ですよ、ちょっと行ってきますと言ってしまうのでした。
鳥取の奥、若桜から西へ三倉という村のある谷に入り、三角点九七三へ登る。この谷は六〇〇メートルくらいから右手の尾根へ取りつく方がよい、尾根伝いに三角点一二八七へ登り、ここより南へ三角点一一二七附近まで往復したが、一一二七メートル附近は地図とだいぶ違っている。それから東山の頂上を極め、登り尾根を下って吉川へ出たが実に愉快なコースだった。翌日若杉峠へ向って行ったが、雪が降っていたため右から入ってくる大きな谷へ迷い、三角点一一五九へ登ってしまった。しかしそのまま大川の谷を横断して沖ノ山の頂上へ登った。頂上より一つ西の峰には展望台があって麓からの里程などが書いてあった。雪が止んで附近の地形がよくわかるので氷昌山へはすぐ下れた。氷昌山には家がたった三軒しかなく、下の村から今日やっと上ってきたところらしく屋根の雪下しを夢中でしていた。氷昌山からはミソギ峠の南側へ登り真白い高原を南へ辿って大海――道仙寺と歩いた。道仙寺の頂上では夜になっていたので瀬戸内海沿岸の燈台の火の明滅しているのが見え、さながら夢の国をさ迷っているような気がした。頂上からは真北に出た尾根を下り、一二〇〇メートルくらいから右の谷へ入ったが、この谷はあまりよくなかった。広い林道に出てからも滝があり、その真上で転倒して肝を冷したりした。西河内は七年以前同じ山から下ってきて泊ったことのある思い出の深い村である。翌日河内を経てショー台に登る。ショー台の南面はスキー場になっていた。頂上からは西の尾根を下り、大通峠を経て三角点一二四四へ登った。ここからは北へ向った尾根を辿り、天狗岩の頂上を極め、なお北へ進んで一一八〇メートル附近から初めて西へ下った尾根へ入ったが、物凄い藪なので右の谷へ逃げた。しかしこの谷もあまりよくなかった。九五〇メートルくらいまで下ってから左へ巻いて元の尾根へ出てみるともう真白な斜面だった。ここは吉川のスキー場なのだろう。シュプールがたくさん残っている。吉川へ下って若桜まで歩いたが、終列車の出た後なのでそのまま春米へ行った。翌日ワサビ谷を登ってみたが、長くて閉口した。二ノ丸から氷ノ山の頂上へのつづきは妙に痩せていて、吹雪だったのでちょっとわからなかった。頂上を越してコシキ岩まで下ったが、二ノ丸、三ノ丸、とつづいた西尾根を下ってみたくなったので引返した。しかし二ノ丸を越して一三四〇メートルにきたとき本尾根が急に下っているのでつい左のゆるい尾根を伝い落折へ下ってしまった。これから若桜へ下ってもまた終列車に間にあいそうにないのであきらめて泊った。翌日戸倉峠から赤谷山へ登った。
父は二、三日といって出かけた私が四、五日もたつのに帰ってこないし、だいぶ吹雪いたので、あるいは遭難したのではないかとの疑念を起し、私の兄と友人に捜索を頼んだ。二人は若桜に行き、駅長に話し、役場など
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