国境尾根の縦走だって一日あれば充分だと思って、食糧として弁当を一日分と少ししか持たなかった。もちろん一日や二日は絶食しても歩ける自信はあった。しかしこの湿気の多い風と雪は、信州の山では完全な防水布の手袋や防寒具をわけなくしめらせて、肌着まで濡れてきた。手もそろそろ感覚が無くなり出したし、吹きつける雪が顔の表面を雨のようになって流れて、熱をうばうし、肌着が濡れているためか、背筋の方にゾッと寒さを感ずるようになってきた。これにはさすがに参ってしまった。それでもアルコールが少し残っていたので、コッヘルで湯を沸かして呑んだ。そしてできるだけ元気を出して前と横に雪の囲いを造った。こうしているうちもときどき居眠りをしていた。やっと半メートルぐらいの相当完全な囲いができたので、あるだけのものをきてルックザックを下に敷き、その上に横になってみた。しかしほんのちょっと眠っただけで、ひどい寒さのため目がさめた。あまり寒いのでその雪の孔から飛び出し、サムイ、サムイと大声で悲鳴をあげながら体操をしばらくつづけた。しかしすぐ眠くてたまらなくなり、また雪の孔の中に戻って横になった。こんな天候の悪いときに、しかも雪の孔の中で、寒さを感じながら眠るというのは無謀なことだった。しかしこのときの僕はいくら眠るまいとしても、それにうちかつことはできなかった。この折の眠さは単なる疲労や睡眠不足ではなく、凍傷からきたものだと思われる。でもすぐまた寒さのために目がさめた。このとき初めて、このまま眠り込んで凍死するようなことになっては大変だと思った。そこで早速荷物をまとめ三ッヶ谷の頂上を目指して登って行った。しかし杖は一本しかきかぬし、スキーにはシールがついていないので、階段登りしかできず、行程はなかなかはかどらない。もちろん疲労もはなはだしく、歩きながら居眠りをしていることが多かった。この頃からそろそろ錯覚を起し出したらしく、雪の色が黄色く見えてきた。また木に積っている雪がちょうど紙切や、旗や、堤燈等に見え出した。そのとき僕はやっぱりこの辺にも木地屋が登ってきて、七夕祭のときに飾る竹のように木を飾っておいたのだろうと思った。そして近づいて行って杖でそれに触ってみて、初めて旗でも堤燈でもないのに気がつくのだった。また歩いていても下半身は全然自分の身体のような気がしなかったし、肩を杖で打ってみてもかすかにしか感じなかった。それで僕はまださっきの雪の孔の中で眠っているか、もしくはその前に雪庇から落ちたようだが、あのまま倒れていて、今夢を見ているのではなかろうかとこう思って、声を限りにどなってみた。しかしその声はかすかに聞えるだけで、その夢を破ることはできなかった。
やがて二十二日の朝がやってきた。その頃はもう雪は止んでいたが、濃霧は相変らず風にあおられていた。そして三ッヶ谷の頂上に近くなった頃は僕も極度に疲労してきて、後二〇メートルほどがどうしても登れない。僕はいくら夢を見ていても、登れるという自信があったら必ず頂上に登った夢になるだろうと、こう思って努力してみたが駄目である。ついに頂上へ登ることを諦めてしまい、横を巻いて北へ進んで行き、ようやく一つ北の尾根へたどりついた。けれどもこれを頂上へ登ることも大変だし、これから先にも相当に登りがあることだから、もう国境尾根縦走を止めて小代村へ下ってしまおうと、こう思ってついに決心をひるがえしてしまった。
やがて滑降が始まった。しかしスキーは下手だし、半分眠っているような状態でどうして満足な滑降ができよう。ちょっと辷ってすぐ自分から身体を投げ出すようだった。あまり苦しいので、歩いて下った方が楽に違いないと思って、スキーをぬぎ、それを一つずつ谷へ向って辷りおろした。両方ともあまり遠くないところで止った。それから歩いて下るつもりだったのに、スキーをぬぐと何だか急に休みたくなり、ルックザックをおろして、それに腰をかけてしまった。
その頃はもう風も凪《な》いでただ霧がかかっているだけだった。そうしているうちに疲れが出てきて、立ち上ることを全く忘れてしまった。そして僕は、もう駄目だ、ついに自分にも終りがきたのだとこう思い出した。そして死ぬということが非常に恐ろしくなり、悲しみの声をあげて泣いた。やがて、このスキー行がすんだら会えるだろうと思っていた故郷の父や、親しい友達のことがぼんやり頭に浮んできた。また会社の方が欠勤になることを昨日から悩んでいて、上の人にどう弁明しようかとか、山から下りたらすぐ電報を打って届を出してもらおう等と考えていたが、死んでしまえばその心配もいらなくなったと、ある気安さを感じた。その他金銭貸借上のこと等が次から次へと浮んできた。しかし僕は死んだのち多くの人に、僕が無謀な山行をしていた当然のむくいを受けたのだと、種
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