数町を下りたり。そのときもう駄目なりという気起り気遠くなる思いなり。岩にぶつかるならんと思い少し梶をとりようやくスロープ緩きところに止り幸いなりき、あやうく命拾いしたり。それよりアイスピッケルを取りに行く困難言葉に表わされず、小石を拾いてそれにて足場を作り一歩一歩進む。手の指かじかみ足また凍えて苦しきことかつて知らず。ようやくピッケルを取りたるときの嬉しさ例えんに物なし、それより尾根へ取付き相当苦しきところを下る。ルックザックのところにて雪渓を行きカバの木を尻にしきて雪渓を辷る。割合安全なれど力を要し進まざれば、途中にて止め、尾根に取付きそれを下りて川原に出で、これを下ればよき道に出でたり。これすなわち穂高登山道ならむ。雪渓へ出でずこの道を下れば、かかる困難をせざりしならむにこれもまた後日のためならむか。経験得るところ多し。これらすべて実に偉大なる恐るべき山なり。穂高は実にアルプスの王なりとしみじみ感ぜり、神の力に縋らずして命を全うすることを得ざるなり、有難く感謝せり。それより道を下る、森林道にてなかなかよし、途中にて堤燈をつけ歌を唱いて下る。無事カッパの橋の人家あるところに出でホッとせり、上高地温泉につきしは九時頃なり、嬉しかりき、温泉へ数度入り宿泊せり。

[#地から1字上げ]二十九日(木曜日)
 雨をおかして六時頃温泉発、大正池附近川原にて道明らかならず迷い、山の方へ川原遡れば道に出でたり。それを行く人に逢い焼ヶ岳に行く道なりと聞きまた川原を下る。大正池数町の手前のところに道あり、これすなわち求むる道なり。焼の中腹道にして通行人も少なく、水の流るるところは土崩れを生じ道なくなかなか困難なり、それより中ノ湯を上り安房峠へいたる。なかなか深山らしき大森林なり(ブナ帯)笹原を下り、平湯に出ず(十時半)十一時同所出発、鉱山跡を通り乗鞍大滝を見ながら上る、非常に大きな滝なり。風雨強く雷鳴を聞きながら登る、大雪渓を突破し頂上近き偃松帯に入り池畔を通りて乗鞍八合目(六時頃着)にいたれば、観測所小屋の壊れたるあり。この他泊るべきところなきよう思われ観測所小屋に入り火を焚かんとすれども燃えず、止むを得ず濡れたるものをぬぎなどして寝るべき支度をせり、気付きて案内の地図を見れば頂上小屋なり。さればと荷を置き頂上へ出発(七時)頂上らしきところまできたりたれど小屋らしき物なし、止むを得
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