強くないが相当寒い。黒い槍の穂は下から見れば近いがなかなか時間がかかる。もちろん三、四月頃の岩に雪が凍りついて真白になったときは岩登りの下手な僕にはとても登れないだろう。槍の頂上、なんとすばらしい眺めよ。あの悲しい思い出の山、剱岳に圧倒されんとしてなお雄々しく高く聳えている。感慨無量。

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二十八日 曇 七・〇〇発 一一・〇〇唐沢出合 三・〇〇スキー・デポ 五・〇〇穂高小屋 五・四〇スキー・デポ 八・〇〇唐沢出合露営
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 横尾谷は雪が少ないので夏道を伝い、唐沢出合附近で川床へ下る。唐沢谷は入ってからちょっとのあいだが一番雪崩のよく出るところで、それからは殆ど雪崩の跡はない。この谷は四方を高い山で囲まれているため強い風があたらず、雪が締っていないから輪※[#「木+累」、第3水準1−86−7]《わかん》が必要だ。穂高小屋附近は、唐沢岳の西側に沿って吹いてくる風が奥穂の岩壁にあたり跳ね返って、とても凄く吹きまくる。それに雪が少し降り出したらしく睫が凍って目が見えなくなるにはちょっと驚いた。いくら風が強くとも唐沢岳くらいはと思っていたが、なかなか小屋まででも大変だった。小屋の陰に坐って奥穂の岩壁に余り雪がついていないのを見ただけで退却する。ちょっと下るともう風もなく嘘のようだ。歩いて下るのも、ブレーカブル・クラストのためなかなか調子が悪く、またスキーを履いてからも暗いのとスキーが下手なので例のごとく七転八倒。本谷と出合ってから、ランタンに火を点そうとすると蝋燭が雪で濡れジーと音がするばかりで火がつかぬ。しようがないからそのまま下る。懐中電燈を持っていれば大丈夫だったものをと今になって悔いてもおそい。ついに出合からちょっと下ったところで川の中へ飛込んでしまった。深さは一尺くらいだったらしいが転んだため腰から下全部濡れてしまう。この調子ではスキーを折る恐れがあると思ったので、ちょっとした岩陰で露営する。靴を脱いで足をルックザックの中に入れ、坐ると濡れたズボンが足に触って冷いので立ったまま夜通し起きていた。とても夜明けの待遠しかったことよ。幸い雪が盛んに降っていたので温度が高く、濡れた物も凍らず、凍傷は免れた。しかしこれがため少し風邪を引いた。またスキー・デポから唐沢小屋まで柔い雪の中を頑張って歩いたので踵を痛め、それが冷えたのか痛
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