もなく入口ががらりと開いて「お母さん、はいりました」と言いつつ弟は台所に上って、声を上げて泣きだしました、この時、始めて病人は「良ちゃん、よかったね」と、久し振りに笑顔を見せました。
 其夜半から看護婦が来ました。看護婦は直ぐ病人の傍へ行って脈をはかり、験温などしました。そして、いきなり本当の病状を喋って仕舞いました。この時脈は百三十を越して、時々結滞あり、呼吸は四十でした。すると、病人は直ぐ「看護婦さん、そりゃ間違っているでしょう。お母さん脈」といって手を差出しました。私はその手を握りながら「ああ脈は百十だね、呼吸は三十二」と訂正しました。普段から、こんな風に私は病人の苦痛を軽くする為に、何時も本当のことは言わないことにしていたのです。病人は私の方を信じて「それ御覧、間違ってるだろう」と看護婦に言います。看護婦は妙な顔をして居ました。此れ等の打合せをしようにも、二人が病人の傍を離れる事は到底不可能な事、まして、小声でなんか言おうものなら、例の耳が決して逃してはおきません。
 其夜、看護婦は徹夜をしました。私は一時間程横になりましたが、酸素が切れたので買いに走りました。そのうちに夜が明
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