の銅か鐵の※[#「※」は「土へん+尼」、26−1]漿を一寸塗りつけておいた。それが面白く發色して流れたのかもしれない。これなど一寸考へた想像で何の據りどころもないのであるが、斯ういふ欠陷を補つた裝飾が一種の景色を構成する場合もあることを言ひたいのであつて、伯庵の茶わんが皆さうであるといふわけではないのである。斯ういふ場合も想像されるといふまでゞある。
 朝鮮の南方で出來た鉢の中に底部を鐵藥で埋めたのがある。これは高臺削りか何かで底に疵が出來たので、そこをつくろふため身邊に有合せの鐵藥を塗抹しておいた――それがうまく疵をかくし、一種の景色を成してゐるものが出土品の中から往々發見される。これなども欠陷が補はれたのである。しかし、こゝでいふ欠陷といふのは、是等の茶わんの偶然的な補足手段をいふのではない、本質的に生地とか釉藥とか又は形の上に欠陷があつて、これを補ふために下繪や上繪や釉藥の力を借りることをいふのである。
 釉の變化、窯中の神秘、天目釉、飴、黄、織部、志野、その他いろ/\の釉の發生の動機や釉と時代との變化を考へてゆくと興味津々たるもので、同じ黄瀬戸といつても時代が變る毎に黄色がちがつてくる。初めは黄色でなく、自然にほのかなる黄色を呈するのを發見して、そのほのかなる黄色を追うて黄色を強調していつたのではないかと思はれる黄瀬戸――それが後代の、また現代のあの黄瀬戸になるまでの釉の變遷は又一種の時代史である。時代が喜ぶからこそ其の裝飾法も永くつゞく。が、然し原始時代の故意に飾らざる美くしさが滅びて、如何にも黄瀬戸がらんとする黄色が横行するやうになつた。また、媒溶劑にしても、昔は如何なる木の灰を用ひたか、その木は今日あるかないか、あつても容易に得られないのか、兎に角「どんなに鯱鉾立をしても古い黄色は出ません」と工人がいつてゐる今日である。灰分の媒溶劑を使つてゐることは分つてゐるが今日の科學を以てしても出來ないところにやきものゝ面白味があるのである。
【ロクロ】
 ロクロを廻すのに、今日のロクロは餘りに器械的に鮮やかに廻るために、昔のやうな、おほらかな物が出來ない。「ガタ/\するロクロでも探して來ないと、あんなのんきなロクロはひけない」と今の工人はいふ。ガタ/\したロクロで充分間にあつた「時代」といふものを矢張考へないではゐられない。
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   古さ

【傳統】
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