頼みますよ……」
「いいとも! お光のことは心配しねえでも、俺が引き受けてやるから安心しな」
「お光……」
「はい……」
「お前も阿父さんを便りにして……阿父さん、お光はまだ若いから、あなたが世話してやって……」
「よし! それも承知してる、心配しねえでもいい」
「お光……」
「はい……」
「このあいだから阿父さんにも頼んどいたが、お前はまだ若いから……若い今のうちに片づくがいいよ……」
「新さん!」とお光は身を顫《ふる》わして涙の中から叫んだ、「私ゃ、私ゃ、いつまでも新さんの女房でいますよ!」
乾ききった新造の目には涙が見えた。舅《しゅうと》の新五郎も泣けば義理ある弟夫婦も泣き、一座は雇い婆に至るまで皆泣いたのである。それから間もなく、新造は息を引き取ったのであった。
* * *
越えて二日目、葬式は盛んに営まれて、喪主に立った若後家のお光の姿はいかに人々の哀れを引いたろう。会葬者の中には無論金之助もいたし、お仙親子も手伝いに来ていたのである。
で、葬式の済むまでは、ただワイワイと傍《はた》のやかましいのに、お光は悲しさも心細さも半ば紛《まぎ》らされていたのであるが、寺から還《もど》って、舅の新五郎も一まず佃の家へ帰るし、親類|親内《みうち》もそれぞれ退《ひ》き取って独り新しい位牌《いはい》に向うと、この時始めて身も世もあられぬ寂しさを覚えたのである。雇い婆はこないだうちからの疲れがあるので、今日は宵《よい》の内から二階へ上って寝てしまうし、小僧は小僧でこの二三日の睡《ね》不足に、店の火鉢の横で大鼾《おおいびき》を掻いている、時計の音と長火鉢の鉄瓶の沸《たぎ》るのが耳立って、あたりはしんと真夜中のよう。
新所帯の仏壇とてもないので、仏の位牌は座敷の床の間へ飾って、白布をかけた小机の上に、蝋燭《ろうそく》立てや香炉や花立てが供えられてある。お光はその前に坐って、影も薄そうなションボリした姿で、線香の煙の細々と立ち上るのをじっと眺めているところへ、若衆の為さんが湯から帰って来た。
「お上さん、お寂しゅうがしょうね。私《わっし》にもどうかお線香《せんこ》を上げさしておくんなさい」
お光は黙って席を譲った。
為さんは小机の前にいざり寄って、線香を立て、鈴《りん》を鳴らして殊勝らしげに拝んだが、座を退《すべ》ると、「お寂しゅうがしょうね?」と同じことを言う。
お光は喩《たと》えようのない嫌悪《けんお》の目色《まなざし》して、「言わなくたって分ってらね」
「へへ、そうですかしら。私ゃまたどうかと思いまして」
お光は横を向いて対手にならぬ。
為さんはその顔を覗くようにして、「お上さん、親方は何だそうですね、お上さんに二度目の亭主を持つように遺言しなすったんだってね?」
「それがどうしたのさ?」
「どうもしやしませんが、親方もなかなか死際《しにぎわ》まで粋《すい》を利かしたもので……それじゃお上さんも寝覚めがようがさね」
「寝覚めがいいの悪いのと、一体何のことだね? 私にゃさっぱり分らないよ」
「へへへ、そんなに恍《とぼ》けなくたって、どうせそのうちに御披露があるんでしょうから……」と言って、為さんは少し膝を進めて、「ですが、お上さん、親方はそりゃ粋を利かして死んなすったにしても、ね、前々からこういうわけだということが、例えば私《わっし》の口からでも露《ば》れたとしたら、佃の方の親方が黙って承知はしめえでしょう」
「何を阿父さんが承知しないのさ?」
「何をって、金さんとお上さんと一緒になることでなくって、ほかにお前さん……」
「まあ! 呆《あき》れもしない。いつ私が金さんと一緒になるって言ったね?」
「言わないたって、まあその見当でしょう?」
「馬鹿なことをお言い!」
為さんはわざと恍けた顔をして、「へええ、じゃ私の推量は違いましたかね」とさらに膝の相触れるまで近づいて、「そう聞きゃ一つ物は相談だが、どうです? お上さん、親方の遺言に私じゃ間に合いますめえか……」
「畜生! 何言やがる※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
お光はいきなり小机の上の香炉を取って、為さんの横ッ面へ叩きつけると、ヒラリ身を返して、そのまま表へ飛び出したのである。
* * *
飛び出して、その足ですぐ霊岸島の下田屋へ駈けつけたお光は、その晩否応なしに金之助を納得させて、お仙と仮盃だけでも急に揚げさせることにした。
底本:「日本の文学 77 名作集(一)」中央公論社
1970(昭和45)年7月5日初版発行
1971(昭和46)年4月30日再版
初出:「新小説」
1905(明治38)年3月
入力:川山隆
校正:土屋隆
2007年2月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このフ
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