る者は残らず珠数繋《じゅずつな》ぎにされて、向うの政府の猟船が出張って来るまで、そこの土人へ一同お預けさ」
「まあ! さぞねえ。それじゃ便りのなかったのも無理はないね」
「便りがしたくたって、便りのしようがねえんだもの」
 女は頷《うなず》いて、「それからどうしたの?」
「それから、間もなく露西亜の猟船というのがやって来たんだ。ところが、向うの船は積荷が一杯で、今度は載《の》ッけて行くわけに行かねえからこの次まで待てと言うんで、俺たちはそのまま島へ残されたんだ。今になると残されてよかったので、あの時連れて行かれようものなら、浦塩《うらじお》かどこかの牢《ろう》で今ごろはこッぴどい目に遭《あ》ってる奴さ。すると、そのうちに今度の戦争が押《お》ッ始《ぱじ》まったものだから、もう露西亜も糞もあったものじゃねえ、日本の猟船はドシドシコマンドルスキー辺へもやって来るという始末で、島から救い出されると、俺《おら》はすぐその船で今日まで稼《かせ》いで来たんだが……考えて見りゃ運がよかったんだ。辞《ことば》も何にも分らねえ髭《ひげ》ムクチャの土人の中で、食物もろくろく与《あてが》われなかった時にゃ、こうして日本へ帰って無事にお光さんに逢おうとは、全く夢にも思わなかったよ」
「そうだろうともねえ、察しるよ! 私も――縁起でもないけど――何《なん》しろお前さんの便りはなし、それにあちこち聞き合わして見ると、てんで船の行方《ゆくえ》からして分らないというんだもの。ああ気の毒に! 金さんはそれじゃ船ぐるみ吹き流されるか、それとも沖中で沈んでしまって、今ごろは魚の餌食《えじき》になっておいでだろうとそう思ってね、私ゃ弔供養《といくよう》をしないばかりでいたんだよ。本当にまあ、それでもよく無事で帰っておいでだったね」
 男はこの時気のついたように徳利を揮《ふ》って見て、「ははは、とんだ滅入《めい》った話になって、酒も何も冷たくなってしまった。お光さん、ちっともお前やらねえじゃねえか、遠慮をしてねえでセッセと馬食《ぱく》ついてくれねえじゃいけねえ」と言いながら、手を叩いて女中を呼び、「おい姐《ねえ》さん、銚子《ちょうし》の代りを……熱く頼むよ。それから間鴨《あい》をもう二人前、雑物《ぞうもつ》を交ぜてね」
 で、間もなくお誂《あつら》えが来る。男は徳利を取り揚げて、「さあ、熱いのが来たから、一つ注《つ》ごう」
 女も今度は素直に盃を受けて、「そうですか、じゃ一つ頂戴しましょう。チョンボリ、ほんの真似《まね》だけにしといておくんなさいよ」
「何だい卑怯なことを、お前も父《ちゃん》の子じゃねえか」
「だって、女の飲んだくれはあんまりドッとしないからね」
「なあに、人はドッとしなくっても、俺はちょいとこう、目の縁を赤くして端唄《はうた》でも転《ころ》がすようなのが好きだ」
「おや、御馳走様! どこかのお惚気《のろけ》なんだね」
「そうおい、逸《はぐ》らかしちゃいけねえ。俺は真剣事《しんけんこ》でお光さんに言ってるんだぜ」
「私に言ってるのならお生憎様《あいにくさま》。そりゃお酒を飲んだら赤くはなろうけど、端唄を転がすなんて、そんな意気な真似はお光さんの格《がら》にないんだから」
「あんまりそうでもなかろうぜ。忘れもしねえが、何でもあれは清元の師匠の花見の時だっけ、飛鳥山《あすかやま》の茶店で多勢《おおぜい》芸者や落語家《はなしか》を連れた一巻《いちまき》と落ち合って、向うがからかい半分に無理|強《じ》いした酒に、お前は恐ろしく酔ってしまって、それでも負けん気で『江戸桜』か何か唄って皆をアッと言わせた、ね、覚えてるだろう」
「そうそう、そんなことがあったっけね。あれはこうと、私が十九の春だっけ。あのころは随分私もお転婆だったが……ああ、もうあのころのような面白いことは二度とないねえ!」としみじみ言って、女はそぞろに過ぎ去った自分の春を懐《なつ》かしむよう。
「ははは、何だか馬鹿に年寄り染《じ》みたことを言うじゃねえか。お光さんなんざまだ女の盛りなんだもの、本当の面白いことはこれからさ」
「いいえ、もうこんな年になっちゃだめだよ。そりゃ男はね、三十が四十でも気の持ちよう一つで、いつまでも若くていられるけど、女は全く意気地がありませんよ。第一、傍《はた》がそういつまでも若い気じゃ置かせないからね。だから意気地がないというより、女はつまり男に比べて割が悪いのさね」
「いけねえいけねえ、じきどうも話が理に落ちて……」と男は手酌でグッと一つ干して、「時に、聞くのを忘れてたが、お光さんはそれで、今はどこにいるの、家は?」
「私?」女はちょっと言い渋ったが、「今いるとこはやっぱり深川なの」
「深川は分ってるが、町は?」
「町は清住町、永代《えいたい》のじき傍《そば》さ」
「そう
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