お上さん」
「え※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」と若衆も驚いて振り返ると、お上さんのお光はいつの間にか帰って背後《うしろ》に立っている。
「精が出るね」
「へへ、ちっともお帰んなすったのを知らねえで……外はお寒うがしょう?」
「何だね! この暖《あった》かいのに」と蝙蝠傘《こうもりがさ》を畳む。
「え、そりゃお天気ですからね」と為さんこのところ少《すこ》てれの気味。
お光は店を揚《あが》って、脱いだ両刳《りょうぐ》りの駒下駄《こまげた》と傘とを、次の茶の間を通り抜けた縁側の隅《すみ》の下駄箱へ蔵《しま》うと、着ていた秩父銘撰《ちちぶめいせん》の半纏《はんてん》を袖畳みにして、今一間茶の間と並んだ座敷の箪笥《たんす》の上へ置いて、同じ秩父銘撰の着物の半襟のかかったのに、引ッかけに結んだ黒繻子の帯の弛《ゆる》み心地なのを、両手でキュウと緊《し》め直しながら二階へ上って行く。その階子段《はしごだん》の足音のやんだ時、若衆の為さんはベロリと舌を吐いた。
「三公、手前お上さんの帰ったのを知って、黙ってたな?」
「偽《うそ》だよ! 俺はこっちを向いて話してたもんだから、あの時まで知らなかったんだよ」
「俺の喋ってたことを聞いたかしら?」
「聞いたかも知れんよ」
「ちょ! どうなるものか」と言いさまザブリと盤台へ水を打《ぶ》っ注《か》けて、「こう三公、掃除が済んだら手前もここへ来や。早く片づけて、明るいうちに湯へ行くべえ」
後は浪花節《なにわぶし》を呻《うな》る声と、束藁《たわし》のゴシゴシ水のザブザブ。
二階には腎臓病の主《あるじ》が寝ているのである。窓の高い天井の低い割には、かなりに明るい六畳の一間で、申しわけのような床の間もあって、申しわけのような掛け物もかかって、お誂《あつら》えの蝋石《ろうせき》の玉がメリンスの蓐《しとね》に飾られてある。更紗《さらさ》の掻巻《かいまき》を撥《は》ねて、毛布をかけた敷布団の上に胡座《あぐら》を掻いたのは主の新造で、年は三十前後、キリリとした目鼻立ちの、どこかイナセには出来ていても、真青な色をして、少し腫《むく》みのある顔を悲しそうに蹙《しか》めながら、そっと腰の周囲《まわり》をさすっているところは男前も何もない、血気盛りであるだけかえってみじめが深い。
差し向って坐ったお光は、「私の留守に、どこか変りはなかったかね?」
「別に
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