花も充分なる発達を遂げた。利休およびその流れをくんだ有名な織田有楽《おだうらく》、古田織部《ふるたおりべ》、光悦《こうえつ》、小堀遠州《こぼりえんしゅう》、片桐石州《かたぎりせきしゅう》らは新たな配合を作ろうとして互いに相競った。しかし茶人たちの花の尊崇は、ただ彼らの審美的儀式の一部をなしたに過ぎないのであって、それだけが独立して、別の儀式をなしてはいなかったという事を忘れてはならぬ。生花は茶室にある他の美術品と同様に、装飾の全配合に従属的なものであった。ゆえに石州は「雪が庭に積んでいる時は白い梅花を用いてはならぬ。」と規定した。「けばけばしい」花は無情にも茶室から遠ざけられた。茶人の生けた生花はその本来の目的の場所から取り去ればその趣旨を失うものである。と言うのは、その線やつり合いは特にその周囲のものとの配合を考えてくふうしてあるのであるから。
 花を花だけのために崇拝する事は、十七世紀の中葉、花の宗匠が出るようになって起こったのである。そうなると茶室には関係なく、ただ花瓶《かびん》が課する法則のほかには全く法則がなくなった。新しい考案、新しい方法ができるようになって、これらから生まれ出た原則や流派がたくさんあった。十九世紀のある文人の言うところによれば、百以上の異なった生花の流派をあげる事ができる。広く言えばこれら諸流は、形式派と写実派の二大流派に分かれる。池の坊を家元とする形式派は、狩野派《かのうは》に相当する古典的理想主義をねらっていた。初期のこの派の宗匠の生花の記録があるが、それは山雪《さんせつ》や常信《つねのぶ》の花の絵をほとんどそのままにうつし出したものである。一方写実派はその名の示すごとく、自然をそのモデルと思って、ただ美的調和を表現する助けとなるような形の修正を加えただけである。ゆえにこの派の作には浮世絵や四条派の絵をなしている気分と同じ気分が認められる。
 時の余裕があれば、この時代の幾多の花の宗匠の定めた生花の法則になお詳細に立ち入って、徳川時代の装飾を支配していた根本原理を明らかにすること(そうすれば明らかになると思われるが)は興味あることであろう。彼らは導く原理(天)、従う原理(地)、和の原理(人)のことを述べている、そしてこれらの原理をかたどらない生花は没趣味な死んだ花であると考えられた。また花を、正式、半正式、略式の三つの異なった姿に生
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