れは「純潔」と「清楚《せいそ》」に身をささげる事によってその罪滅ぼしをしよう。こういうふうな論法で、茶人たちは生花の法を定めたのである。
わが茶や花の宗匠のやり口を知っている人はだれでも、彼らが宗教的の尊敬をもって花を見る事に気がついたに違いない。彼らは一枝一条もみだりに切り取る事をしないで、おのが心に描く美的配合を目的に注意深く選択する。彼らは、もし絶対に必要の度を越えて万一切り取るようなことがあると、これを恥とした。これに関連して言ってもよろしいと思われる事は、彼らはいつも、多少でも葉があればこれを花に添えておくという事である。というのは、彼らの目的は花の生活の全美を表わすにあるから。この点については、その他の多くの点におけると同様、彼らの方法は西洋諸国に行なわれるものとは異なっている。かの国では、花梗《かこう》のみ、いわば胴のない頭だけが乱雑に花瓶《かびん》にさしこんであるのをよく見受ける。
茶の宗匠が花を満足に生けると、彼はそれを日本間の上座にあたる床の間に置く。その効果を妨げるような物はいっさいその近くにはおかない。たとえば一幅の絵でも、その配合に何か特殊の審美的理由がなければならぬ。花はそこに王位についた皇子のようにすわっている、そして客やお弟子《でし》たちは、その室に入るやまずこれに丁寧なおじぎをしてから始めて主人に挨拶《あいさつ》をする。生花の傑作を写した絵が素人《しろうと》のために出版せられている。この事に関する文献はかなり大部なものである。花が色あせると宗匠はねんごろにそれを川に流し、または丁寧に地中に埋める。その霊を弔って墓碑を建てる事さえもある。
花道の生まれたのは十五世紀で、茶の湯の起こったのと同時らしく思われる。わが国の伝説によると、始めて花を生けたのは昔の仏教徒であると言う。彼らは生物に対する限りなき心やりのあまり、暴風に散らされた花を集めて、それを水おけに入れたということである。足利義政《あしかがよしまさ》時代の大画家であり、鑑定家である相阿弥《そうあみ》は、初期における花道の大家の一人であったといわれている。茶人|珠光《しゅこう》はその門人であった。また絵画における狩野《かのう》家のように、花道の記録に有名な池の坊の家元|専能《せんのう》もこの人の門人であった。十六世紀の後半において、利休によって茶道が完成せられるとともに、生
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