要な論議が次から次へと行なわれた。茶道いっさいの理想は、人生の些事《さじ》の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものである。道教は審美的理想の基礎を与え禅はこれを実際的なものとした。
[#改ページ]

     第四章 茶室

 石造や煉瓦《れんが》造り建築の伝統によって育てられた欧州建築家の目には、木材や竹を用いるわが日本式建築法は建築としての部類に入れる価値はほとんどないように思われる。ある相当立派な西洋建築の研究家がわが国の大社寺の実に完備していることを認め、これを称揚したのは全くほんの最近のことである。わが国で一流の建築についてこういう事情であるから、西洋とは全く趣を異にする茶室の微妙な美しさ、その建築の原理および装飾が門外漢に充分にわかろうとはまず予期できないことである。
 茶室(数寄屋《すきや》)は単なる小家で、それ以外のものをてらうものではない、いわゆる茅屋《ぼうおく》に過ぎない。数寄屋の原義は「好き家」である。後になっていろいろな宗匠が茶室に対するそれぞれの考えに従っていろいろな漢字を置き換えた、そして数寄屋という語は「空《す》き家」または「数奇家」の意味にもなる。それは詩趣を宿すための仮りの住み家であるからには「好き家」である。さしあたって、ある美的必要を満たすためにおく物のほかは、いっさいの装飾を欠くからには「空《す》き家」である。それは「不完全崇拝」にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させるからには「数奇家」である。茶道の理想は十六世紀以来わが建築術に非常な影響を及ぼしたので、今日、日本の普通の家屋の内部はその装飾の配合が極端に簡素なため、外国人にはほとんど没趣味なものに見える。
 始めて独立した茶室を建てたのは千宗易《せんのそうえき》、すなわち後に利休《りきゅう》という名で普通に知られている大宗匠で、彼は十六世紀|太閤秀吉《たいこうひでよし》の愛顧をこうむり、茶の湯の儀式を定めてこれを完成の域に達せしめた。茶室の広さはその以前に十五世紀の有名な宗匠|紹鴎《じょうおう》によって定められていた。初期の茶室はただ普通の客間の一部分を茶の会のために屏風《びょうぶ》で仕切ったものであった。その仕切った部分は「かこい」と呼ばれた。その名は、家の中に作られていて独立した建物ではない茶室へ今もなお用いられている。数寄屋
前へ 次へ
全51ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡倉 天心 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング