すに苦しんでいる。現今の茶は葉を碗《わん》に入れて湯に浸して飲むのである。西洋の諸国が古い喫茶法を知らない理由は、ヨーロッパ人は明朝の末期に茶を知ったばかりであるという事実によって説明ができるのである。
後世のシナ人には、茶は美味な飲料ではあるが理想的なものではない。かの国の長い災禍は人生の意義に対する彼の強い興味を奪ってしまった。彼は現代的になった、すなわち老いて夢よりさめた。彼は詩人や古人の永遠の若さと元気を構成する幻影に対する崇高な信念を失ってしまった。彼は折衷家となって宇宙の因襲を静かに信じてこんなものだと悟っている。天をもてあそぶけれども、へりくだって天を征服しまたはこれを崇拝することはしない。彼の葉茶は花のごとき芳香を放ってしばしば驚嘆すべきものがあるが、唐宋《とうそう》時代の茶の湯のロマンスは彼の茶|碗《わん》には見ることができない。
日本はシナ文化の先蹤《せんしょう》を追うて来たのであるから、この茶の三時期をことごとく知っている。早くも七二九年|聖武《しょうむ》天皇|奈良《なら》の御殿において百僧に茶を賜うと書物に見えている。茶の葉はたぶん遣唐使によって輸入せられ、当時流行のたて方でたてられたものであろう。八〇一年には僧|最澄《さいちょう》茶の種を携え帰って叡山《えいざん》にこれを植えた。その後年を経るにしたがって貴族|僧侶《そうりょ》の愛好飲料となったのはいうまでもなく、茶園もたくさんできたということである。宋の茶は一一九一年、南方の禅を研究するために渡っていた栄西《えいさい》禅師の帰国とともにわが国に伝わって来た。彼の持ち帰った新種は首尾よく三か所に植え付けられ、その一か所京都に近い宇治《うじ》は、今なお世にもまれなる名茶産地の名をとどめている。南宋の禅は驚くべき迅速をもって伝播《でんぱ》し、これとともに宋の茶の儀式および茶の理想も広まって行った。十五世紀のころには将軍|足利義政《あしかがよしまさ》の奨励するところとなり、茶の湯は全く確立して、独立した世俗のことになった。爾来《じらい》茶道はわが国に全く動かすべからざるものとなっている。後世のシナの煎茶《せんちゃ》は、十七世紀中葉以後わが国に知られたばかりであるから、比較的最近に使用し始めたものである。日常の使用には煎茶が粉茶に取って代わるに至った、といっても粉茶は今なお茶の中の茶としてその地
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