房州紀行
大町桂月
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鬼涙山《きなだやま》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ます/\
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江山の姿、とこしなへに變ることなくして、人生の遭逢、竟に期すべからず。曾て房州に放浪して、菱花灣畔に、さゝやかなる家を借り、あびきする濱邊に出でて、溌剌たる鮮魚買ひ來りては、自から割き、自から煮て、いと心安き生活を送り、時には伴れだちて、城山の古城址に興亡の跡を訪ひ、延命寺の古墳に里見氏の昔を弔ひ、富山を攀ぢ、清澄山に上り、誕生寺を訪ひ、洲崎辨天にまうで、行き暮れて白須賀灣頭の月に臥し、夜ふけて鋸山上の古寺に白雲と伴ひて眠るなど、形體を波光山影の間に忘れて、虚心江上の白鴎に伴ひし當年の遊蹤、猶ほ昨日の如きに、同じく遊びしもの、今四散す。一盃を共にせむとして、また得べからず。品川海上より天邊一髮の青螺を望む毎に、覺えず愴然として涙下る。
この三年の間、同じ窓に學びし友の、一半は地方に別れ行き、都に殘れるものも、相逢うて胸襟を開くこと稀なれば、暇ある時を擇びて、二日三日、共に江湖の外に優遊して、積もれる思ひを吐きつくさばやとて、羽衣、烏山二子と共に、かれこれ其の遊ぶ處を議したる末、遂にわれ東道の主人となりて、房州にゆくことに決す。
靈岸島より汽船に乘る。空くもりて、風寒き冬の朝なり。始めのほどは、寒きを忍びて、甲板の上に出でて、江山を指點しつゝ、連歌などなしゝが、やがて微雨至りければ、みな下る。浦賀に立ち寄りしほど、雨小やみせり。こゝより新たに乘りし一行の客あり。男は豪商とおぼしく、その妻のまだ年若きが、顏はうるはしとにはあらねど、姿いと清楚なり。年老いたるは、その母にや。四十路ばかりなるは、その叔母にや。猶ほ僕とおぼしき人、ひとり從へり。室内には、座を占めむ餘地なければ、この一行みな甲板にのぼりゆきぬ。浦賀より房州にゆく舟路は、東京灣の口を横切ることなれば、浪あらく、舟うごくこと甚し。烏山は風邪の心地なりとて、一隅に身をちゞめ、羽衣は船暈の氣味なりとて、座に俯す。船はます/\動搖するほどに、これも船に醉ひたるにや、さきに甲板に上りたる年若き女、手巾もて口を掩ひながら、いと力なげに下り來たる。雨に惱む海棠、風に顰する女郎花、よその見る目もいたはし。男二人横臥せる間のしりへに、わづかに膝を容るゝばかりの餘地を求めて、顏を袖に埋めて俯す。その頻にせきあぐるを見て、かたへに腰かけたる男、船童をよびて、嘔くうつは持て來らしむ。器來たる。女すこしばかり嘔きしが、遂にえ堪へで、横臥せる男の脛を枕にして臥す。雨ます/\降りければ、甲板にありし人、みな下りしに、舟はやがて金谷につきぬ。上陸する人あるが中に、かの船暈に臥したる女、よろよろと立ちあがり、裾さばきもしなやかに、その姑とおぼしき人の手をとりて、船の出口に導く。そのさまいと苦しげなり。やがて歸り來りて、叔母とおぼしき人を伴ひてゆきしが、また獨り歸り來りて、席に伏して、いたく嘔く。あはれ、船に醉へる嫁の、わが體は立たざるに、なほ年老いたる姑と叔母との、船に醉はざるをもいたはりて、扶けゆく心の底も汲まれて、さきに、あらぬ男の脚を枕にするなど、船の醉とは云へ、たしなみなき女なりと思ひしに、いまこのさまを見て、ひそかに涙を墮しぬ。
保田にて汽船を下りて、短艇にのるほどに、雨大いに到りぬ。荷物堆くつみたる上に、十人餘りの旅客、傘をならべて蹲踞す。風荒れ、雨舞ひ、傘端の點滴、人の衣を霑して、五體覺えず寒戰せり。かくて上陸して一旅店に投ず。家は新しけれど、いとせまし。たゞ町の雜沓をはなれたるを取柄に、二階の六疊の一間に、三人火鉢をかこみて、ぬれたる衣かわかしなどす。窓より鋸山を望むに、雲の絶間に、時に寸碧をあらはすのみにて、全山は見るに由なく、雨いみじうして、いつ晴るべしとも見えず。せめて體をあたゝめむとて、午食の膳に、三人鼎坐して、杯を飛ばす。
雨に早く暮れし夕べ、風呂湯ありやと問へば、なしといふに、益※[#二の字点、1−2−22]失望して、數杯をかたむけて止みぬ。かたみに連歌などなしゝが、烏山頭いたむとて、早く臥す。羽衣もわれも床に入りて、一唱一和せしが、はては疲れて眠りぬ。三とせの間、同じ窓にいそみし身の、江湖の外にうちとけて、浮世離れし茅店に川臥して、しづかに雨を聽くも、さすがに興なきにあらず。この夜、連歌したる後の即興に、『雨も心のありげなりけり』と、羽衣下の句を打出だすに、われ、とりあへず、『しめやかに語らふ窓におとづれ
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