杉田の一夜
大町桂月
−−
【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+施のつくり」、第3水準1−84−74]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)よく/\聽けば
−−
疲れてくたばるまで歩いて見むと、草鞋脚半のいでたちにて家を出でたれど、汽車のある路は、馬鹿々々しくて歩かれず。横濱までは汽車に乘り、龍頭より小舟に乘りて、屏風ヶ浦をわたる。西山夕陽を啣みて、海波紫に、うち渡す暮烟の中に、ひとむら濃きは杉田なるべく、うれしくも花候におくれざりしと、まづ心ゆきしが、やがて杉田に近づけば、暗香おのづから人を撲つに、ゆかしさ限りなし。既に四たび五たびも遊びて、殘る隈もなく見盡したる地なれど、未だ月夜の梅を見たることなし。今宵こそはとて、東屋にやどる。
磯山寺の華鯨音なく、梅を殘して靜に暮るゝ春の夕べ、何となう面白く、仰ぎ見れば、むかつをの頂に、老松一株翼然として天を摩するさま、殊に韻致を添ふるに、しばし二階の障子を明け放して見とれけるが、忽ち空艪漕ぐ聲す。花を見すてて歸る雁がねにや。一首なくてはと空を見わたせど、雁影は見えず。忽ちまた鳴く。されど、なほ見えず。三聲四聲、あまり鳴音のしげきに、よく/\聽けば、まことの雁にはあらで、宿に飼ひたる鶩のなく音なりと氣が付きて、覺えず雨江と相顧みて一笑す。
酒に陶然として醉ひ、宿を立ち出でて、まづ前遊の時立ちよりし茶店に茶を乞はむとて、戸を推せば、恰も入れちがひに、一人の僧の歸りゆくあり。見れば、白鬚長き老翁、爐にあたり、自在にさがれる鐵瓶を隔てて老媼と相對す。僧を送り出でたる一人の女、土間に臥せる小犬を抱き起せば、犬は狎れて、その手を舐りながら、ねむたさに堪へでや又靜かに眠る。女、われらを顧みて、東屋に宿りたまひたる御客ならむといふ。如何にして知りたると問へば、先程已に通知ありたりとて笑ふさま、山家そだちのものとも見えず。老媼茶を汲みて出せば、女そを受取りて、いざとて侑む。酒後の茶とて、味ひ太だ好し。老翁しきりに、上りて爐に當れよと云へど、夜も更けたり、また來むとてたち出づ。
八幡祠前を散歩す。このあたり、梅尤も多し。一痕上弦の月、天に印し、林下寂として人なし。花は已に滿開なれど、月光おぼろなれば、一望たゞ白模糊たるを見る。晝間はいぶせき茅屋も、梅花にうづもれて、夜色の中に縹渺たるさま、えも言はず。すべて見苦しきものは掩ひつくされて、香氣獨り高く、骨までもしみ通るかと疑はる。われ此景に對して、また言ふ所を知らず。遂に堪へ兼ねて、一枝を手折りて歸る。
春まだ淺き夜寒の風に、醉もさめたれば、また麥酒のみて眠に就く。折り來りし梅枝は枕頭に在り。脈々たる幽香に護られて、醉夢いづくにか迷ひけむ、窓に近き鶯聲の綿蠻たるに驚けば、日は已に梅林の梢に昇りぬ。名殘は盡きねど、宿を辭して、八幡祠後の山に上る。一村眼下に在り。梅は茅屋の間に點綴す。左に本牧岬を望み、右に觀音崎を望み、房州の山、天邊に寸碧を※[#「てへん+施のつくり」、第3水準1−84−74]く。東風のどかにして、海波熨するが如く、布帆みな坐するが如し。路の兩側に茶店あり。右よりは三十餘りの年増、左よりは十七八の少女出で來りて、休んで行けといふ。左に休まば、年増は失望せむ。右に休まば、少女は失望せむ。遂にいづれにも休息せずして下る。
杉田に滑川といふ小流あり。當年の青砥藤綱の領地、もと此に在り。その五文の錢を拾ひしは、鎌倉の滑川にあらずして、こゝの滑川なりと案内の童にそゝのかされて、行いて見しに、川身に直徑八寸ばかりなる圓き穴五つあり。これむかし落ちたる錢の痕の、年を經て大くなりたるなりといふに、覺えず噴飯せしは、早や已に十年前の一夢となりぬ。その錢痕、今なほ存するや、存せざるや、知らず。
朝まだ早ければ、遊人未だ出でず、香氣獨り山海の間に滿てり。されど、われは竟にこの香世界を去らざるべからず。命あらば、また來年の春にとて、歸路に就く。憶ふ昔、佐藤一齋の杉田觀梅記に感服のあまり、頓に遊意を催して、夜八時都を出で、明方杉田に着し、その日また直ちに歸路に就き、一晝夜を全く徒歩して辭せざるまでに思ひこがれたる地なれど、前後こゝに遊びし友、一半は渭樹秦雲と隔たり、一半は幽明界を異にす。こゝに遊ぶにつれて、また恨みなき能はず。獨り梅花は舊に依りて東風に笑ひ、われ亦舊の如く江湖の窮措大なり。嗚呼既往十年の事、恥あり恨あり涙あり。苦しき憂世にたつき求むとて、心にもあらぬ事を忍びたるも幾度ぞや。よしや塵には汚れたりとも、もとの心は、花ぞ知るらむ。さらでだに分ち難き袂に
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
大町 桂月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング