たり。親房の子顕家、鎮守府将軍となりて陸奥に至りし時、親朝は評定衆、兼引付頭人となりて国政に参与したり。後に下野守護となり、大蔵権大輔となり、従四位を授けられ、修理権太夫にまでも進めり。思ふに関東の一大豪族、武略と共に材能もありて、当時有数の人材也。然《しか》るに、南風競はず、北朝の勢、益々隆んなるに及び、父の遺言を反古《ほご》にし、半生の忠節に泥を塗りて、終《つい》に賊に附したり。関城書は、親房が関城に孤立せし際、親朝がまだ形勢を観望せるに当り、大義を説きて、その心を飜《ひるが》へさむとせしもの也。辞意痛切、所謂《いわゆる》懦夫《だふ》を起たしむるの概あり。然れども、親朝の腐れたる心には、馬耳に東風、城陥りて、親房の雄志終に伸びず。名文空しく万古に存す。
当年の関城主は誰ぞや。関宗祐、宗政父子也。延元三年、親房は宗良親王を奉じて東下せしに、颶風《つむじかぜ》に遭ひて、一行の船四散し、親房は常陸に漂着し、ひと先づ小田城に入る。然るに城主小田治久賊に心を寄せければ、関城に移れり。宗祐は無二の忠臣也。親房を奉じて忠節を尽せり。当時、関東は幾《ほと》んどすべて賊に附して、結城親朝さへ心を飜
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