心かはれるを見て、誓詞書かせんとて、紙とりゆきたるひまに、男逃げゆきぬ。あと追へど、及ばず。女終に熱湯のわき出づる槽中に入りて爛死せるこそいたましけれ。その湯槽は是れなりと指す。槽は蓋ありて、熱湯は見えず。盛んに立ちのぼる湯氣は、むかし李夫人のあらはれし反魂香もかくやと見ゆる夕べの空、湯氣の末に一痕の缺月かすか也。

        九 湯ノ嶽

湯本温泉、一に三函の湯と稱す。湯ノ嶽の頂に、三個の石あり。函に似たり。温泉の根原なれば、これを取りて、かくは名づけたるなりとは受取りがたけれど、久しく書窓の下に鎖したる健脚を伸ばさむとて、導者一人やとひて立ち出づ。
 湯ノ嶽の麓にいたれば、小野田炭坑あり。馬小屋の如き人家の立ちならべるは、坑夫の住居なるべし。山中に一區を造りて、物賣る家二三軒あり。飮料には一溪の水を分ち、上流に汚れたる衣を洗ふものあれば、下流には米とぐものあり。三四疊ばかりの小屋の中に、妻もこもれり、二三人子供もこもれり。住めばこゝも都なるべし。君と共に住めば手鍋さげてもと、青春の戀にうかるゝ都の若き男女に、かゝるさま見せてやりたし。
 導者は、六十ばかりの老人也。自から稱す、汽車の通ぜざりし頃は、車夫を業とし、東京まで二日半にて走りつき、得たる賃錢を紅樓に一擲して豪遊せしも、すでに一炊の夢に歸しぬ。君よ、我に湯本の花柳界の事を問ひ給ふこと莫れ。老來絶えて芳ばしき夢を結ばず。湯本の驛外、半頃の地を求めて、暮耕朝耨、かくて我生涯は終らむとする也と。
 二日半にて六十里の路を走りし男も、老いては、さまで健ならず。われは蕨を採り行くに、導者はなほ遲れがち也。頂上に到れば、一木なし。一面は海、三面は山、常磐の山海、指顧の中に在り。導者は一々山嶽の名を指さし教へむとすれど、暫らく休息せよ、さまで記するに足るべき名山もなしとて、岩に腰かけて、煙草を吹かしつゝ眺望すること多時。
 歸路、頂上より七八町下りたる所、一羽の雉、地にすわりて、人を見れども動かず。げにや燒野のきゞす夜の鶴、子をかへすにやあらむと、横目に見て、過ぎ去らむとすれば、導者もまた早く之を認め、むざんや、棒を以て之をなぐる。雉驚いて空に上ること三四尺。力なく地に落ちて又飛ぶこと能はず。眼なほ瞑せずして、口に鮮血を吐く。そのすわりし跡を見れば、果して數個の卵ありき。ひどきことをするもの哉。親鳥はせむかたなし。せめて卵は鷄にでもかへさせむとて、導者に持たせて、山を下れり。谷底遙に雄雉の聲を聞く。雌を呼ぶにやとあはれ也。

        一〇 松川浦

相馬の野を邊ぐるに、また當年の野馬を見ず。相馬氏の故城址は、中村驛外にあり。城門、城濠、石壁なほ存す。今宵は原釜の海水浴旅館に宿らむとて、中村停車場より車にのり、細田入江に至りて、車をすて、舟に上る。
 余はこれより松川浦に浮ばむとする也。松川浦は松島に次ぐ東奧の奇勝と稱せらるゝ處、余は多年之を夢寐に見しが、今現にその地に來れり。うれしさ譬ふるに物なし。
 されど、夕陽は用捨なく西に沈めり。暮色早や灣々を罩めつくせり。われ舟夫に向ひて、舟を原釜の方に進めよと云へば、日暮れたりとも、せめて松川村まで至りて、然る後に原釜に赴き給へといふ。いなとよ、名だゝる勝地、闇の中に見て過ぎむは、殘り多し。明朝を期して、重ねて來り見むと云へば、さらばとて、舟夫舟を蘆荻の間につなぎ、余を導いて一旅館に至り、明朝を約して歸り去れり。
 時節はづれのこととて、女中はひとりも居らず。宿の妻は、中村の本店にありとて、主人自から食物を調理し、自から膳を運び來りて、杯酌に侍す。木訥仁に近き男也。なまじひの女中などより却つて興ある心地して、快く酒のみて寢につけり。
 翌朝、朝飯を終れば、昨日の舟夫、既に來り居たり。荷物は宿屋に置きて、酒肴を持たせて、汀邊に赴けば、舟は昨夕つなぎしまゝに横はれり。舟夫は陸路家にかへり、また陸路より來れる也。
 いと晴れわたりたる日也。舟は文字島さしてゆく。水淺くして、扁舟膠して動かざること屡※[#二の字点、1−2−22]也。舟夫遙に右方の老松數株生ひたる孤丘を指して曰く、これ十二景の一なる川添の森也。舟夫又一帶の長丘の中に蘭若の見ゆる處を指して曰く、これ紅葉の岡也。紅葉の岡の盡きたる處、水中に草木なき孤岩立つ。舟夫曰く、これ文字島。文字島と竝びて、稍※[#二の字点、1−2−22]大に、岩あり、樹木あるもの、曰く沖島也。舟、兩島の間の橋下をくゞりてゆけば、右の方遙に一帶の松洲を見る。曰く、松沼の濱也。その南に、梅川、鶴巣野の勝地あれど、遠くして見えず。舟左に轉じて、中洲に至る。洲上を散歩す。砂清く、松小にして奇也。對岸一帶の長洲長さ一里半、喬松生へつゞけり。曰く、長洲の磯也。また舟に上り、左の方松川村さしてゆく。この間、水中
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