。せめて卵は鷄にでもかへさせむとて、導者に持たせて、山を下れり。谷底遙に雄雉の聲を聞く。雌を呼ぶにやとあはれ也。
一〇 松川浦
相馬の野を邊ぐるに、また當年の野馬を見ず。相馬氏の故城址は、中村驛外にあり。城門、城濠、石壁なほ存す。今宵は原釜の海水浴旅館に宿らむとて、中村停車場より車にのり、細田入江に至りて、車をすて、舟に上る。
余はこれより松川浦に浮ばむとする也。松川浦は松島に次ぐ東奧の奇勝と稱せらるゝ處、余は多年之を夢寐に見しが、今現にその地に來れり。うれしさ譬ふるに物なし。
されど、夕陽は用捨なく西に沈めり。暮色早や灣々を罩めつくせり。われ舟夫に向ひて、舟を原釜の方に進めよと云へば、日暮れたりとも、せめて松川村まで至りて、然る後に原釜に赴き給へといふ。いなとよ、名だゝる勝地、闇の中に見て過ぎむは、殘り多し。明朝を期して、重ねて來り見むと云へば、さらばとて、舟夫舟を蘆荻の間につなぎ、余を導いて一旅館に至り、明朝を約して歸り去れり。
時節はづれのこととて、女中はひとりも居らず。宿の妻は、中村の本店にありとて、主人自から食物を調理し、自から膳を運び來りて、杯酌に侍す。木訥仁に近き男也。なまじひの女中などより却つて興ある心地して、快く酒のみて寢につけり。
翌朝、朝飯を終れば、昨日の舟夫、既に來り居たり。荷物は宿屋に置きて、酒肴を持たせて、汀邊に赴けば、舟は昨夕つなぎしまゝに横はれり。舟夫は陸路家にかへり、また陸路より來れる也。
いと晴れわたりたる日也。舟は文字島さしてゆく。水淺くして、扁舟膠して動かざること屡※[#二の字点、1−2−22]也。舟夫遙に右方の老松數株生ひたる孤丘を指して曰く、これ十二景の一なる川添の森也。舟夫又一帶の長丘の中に蘭若の見ゆる處を指して曰く、これ紅葉の岡也。紅葉の岡の盡きたる處、水中に草木なき孤岩立つ。舟夫曰く、これ文字島。文字島と竝びて、稍※[#二の字点、1−2−22]大に、岩あり、樹木あるもの、曰く沖島也。舟、兩島の間の橋下をくゞりてゆけば、右の方遙に一帶の松洲を見る。曰く、松沼の濱也。その南に、梅川、鶴巣野の勝地あれど、遠くして見えず。舟左に轉じて、中洲に至る。洲上を散歩す。砂清く、松小にして奇也。對岸一帶の長洲長さ一里半、喬松生へつゞけり。曰く、長洲の磯也。また舟に上り、左の方松川村さしてゆく。この間、水中
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