右に牧場事務所の門を入れば、庭に一株の老櫻あり。花いまだ開かざるが、幹は二抱へもあるべく、四方八方に枝を張りて、恰も傘の如し。老櫻とは、名づけ得て當れり。低けれども、見事なる老木也。
 門を出でて進みゆくに、十字街を爲せる處より、人家兩側に連なる。新開の寂しき町なれど、宿屋もあり、飮食店もあり。家毎の前に、桶を置く。大さ凡そ四斗樽ぐらゐ、黒く塗りて、擔げるやうに綱をつく。水、其の中に滿てるが、いたく濁れり。飮用水とは見えず。火災に備ふるにやなど語り合ひつゝ、五六町にして、町はづれに至る。後より芝山行の空馬車來りけるが、御者車を停めて、乘らむことを勸む。『仁王の參詣者に非ず。唯※[#二の字点、1−2−22]花見に來りたるなり』といへば、御者また強ひず。『この路を進めば、櫻ありや』と問へば、『有るには有れど、見るに足らず。今少し行きて、左折し、更に左折したる處は、九年畑とて、櫻多し』と、幾度も同じことを繰返す。年は五十を越えたるべく、長くして品の好き顏、赤きこと熟※[#「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「柿」の正字」、第3水準1−85−57]の如し。近寄らば、熟※[#「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「柿」の正字」、第3水準1−85−57]の臭ひもあるべし。醉へることは、其の顏を見るまでもなく、其の話振にても分りたるが、その管卷くを見れば、根が正直の善人なるべし。春風に※[#「酉+它」、第4水準2−90−34]顏を吹かれながら、櫻花の間に馬を驅るさま、如何にも風流げなれど、客なくてはと憐れ也。
 九年畑に至れば、凡そ五六町の間、半開の櫻花、路の兩側に連なる。なほ一列の櫻、右に分れて、方數町の畑を圍む。櫻の外は、長松の林あり。内は麥長じて青し。左も畑なるが、畑の盡くる處、林あり。三里塚の人家の裏も見ゆ。花のトンネルを行き盡して十字街に戻り、一店に就いて、『九年畑の外、櫻の多き處は』と問へば、『西の方五六町、根木名《ねこな》の廐に至れば、櫻多し』といふ。その言に從ひて行く。左に遊園地あり。細長き地に、櫻の若木を植ゑ、ベンチを設け、ブランコを備へたり。花まだ咲かぬ山櫻の老木の列を爲せる路、三四町にして盡き、左折すれば、半開の吉野櫻の列あり。二三町にして右折し、線路を越えて、廐の門を入る。櫻花長く列を爲す。こゝも半開の吉野櫻也。其の奧に廐あり、牧場もあり。群
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